生と死

死は非合理なものである。それは事実としてあるが、論理的に正当化できぬし、本当には経験できぬ。古代のエピクロス学派がはっきりと述べた通り、それはわれわれの経験の外にあるものなのである。生が合理的・論理的なものとも言えぬ。が、生は、「自分が生きている」という端的な事実を内感を通じて把握できる。簡単にいえば、イマニュエル・カントやジル・ドゥルーズがいう強度量(内包量)によって。カントは『純粋理性批判』で、あらゆる感覚にはその「度合い」が存し、それには正の値しか存在しないと考えた。例を挙げてみると、例えば今私の左の掌を針でちょっと突っつくと、こそばゆい感じがする。強く押すと、痛みが出てくる。さらに強く押すと、怪我をし、さらに強い痛みを感じる。この一連の動作において、感覚は弱から強へと漸進的に変動する。簡単にいえば、これが強度量(内包量)である。ドゥルーズ=ガタリのいう「強度量=0」とは、理念的な極限概念としての死である。われわれは、それに無限に漸進するが、生きている限りそこに到達することはない*1。刺激がないように思える身体であっても、内感を鋭敏に働かせてみれば、皮膚の表面から内臓の奥底に至るまで、実にいろいろな度合いの感覚刺激に彩られていることが理解できる。つまり、「私は生きている」わけだ。

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

*1:これはフロイト死の欲動や涅槃原則などを想起させる概念である。