功利主義

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功利主義には倫理が欠けている、という人がいます。功利主義とは、ベンサムやミルに代表される思想ですが、一般的にいって、利益なり快楽を求める性向を肯定する思想だと言っていいと思います。

私は、功利主義者です。

功利主義者が浅薄だという謂れのない誤解がありますが、私はそんなことはないと思います。功利主義に倫理や他者が欠けている、という批判も当たらないと考えています。というのも、自分の利益なり快楽を追求する時、人間は社会の中で生きていますから、自己の利益なり快楽を最大化しようとすれば、必ず他者と協調せざるを得ないし、未来や過去の他者のことも顧慮せざるを得ないからです。古代でいえば、エピクロスの思想が蒙ったのと同じ誹謗を、功利主義は蒙っています。

私は、デカルトスピノザ、それから特にジョン・ロックやヒュームなどのイギリス経験論、要するに17世紀の哲学を読んでいて、彼らが用いる「善」という用語が多くの場合「快」を意味していることに驚いた記憶があります。「善」なるものが、快苦といったものを超えた何かとして定義されるのはカント以降なのです。われわれ現代人にとっても、「善」と言われると何か自己犠牲や奉仕のようなものを想起するのが普通でしょう。善 goodという言葉で快楽なり利益を意味していた時代があったことは、案外知られていないのではないでしょうか。

偏見かもしれませんが、私は、カント以降の哲学、ドイツ観念論に疑いを抱いています。それは実践理性なり意志(意欲)の哲学ですが、それは高邁なようでいて内容空疎なのではないかと疑っているのです。アングロ・サクソンの思想は、マルクスニーチェが考えたようなつまらぬものではありません。マルクスは『資本論』においてベンサムを嘲笑し、ニーチェは『善悪の彼岸』においてジョン・ロックを浅薄だと非難しています。しかし、わけのわからぬ「深遠」なる形而上学などより、日常なり常識に根ざした実践思想なり倫理のほうがいいのではないでしょうか。

話は飛びますが、プラトンにおいて「善」とはまさに「善」そのもの、「善」のイデアでした。プラトンの複雑な思想をいささか簡単に述べると、彼にとってイデアであるものとは、例えば「善」や「美」のような卓越した価値、或いは「大 / 小」などの対になった論理的関係性でした。私は古典ギリシア語の教養がないので間違っているかもしれませんが、プラトンにあって、純粋なイデアと、「形相」は区別されると、早稲田大学大学院文学研究科のプラトンが専門の教授は私に教えてくれました。例えば、「机」なり「人間」には形相があり、例えば製作的知性にとって目的となります。机を作る職人は、机の形相を思い描き、それに似るように机を作ります。

ところで、脱線しますが、プラトンの考えの大きな転換点は晩年の対話篇『パルメニデス』にあります。そこでは、若きソクラテスが、老いたるパルメニデスと議論をするのですが、ソクラテスは、塵・泥・毛髪のようなつまらぬものにもイデアはあるのか?とパルメニデスに問い掛けられ、答えることができないでいます。パルメニデスは、ソクラテスに、君はまだ若い、と声を掛け、その話題は終わります。

そこから汲み取れるのは、プラトンの思想にあっては、「悪」「醜」のような反価値的なものや、塵・芥・泥・毛髪・糞便等々のくだらぬものにはイデアも形相もないとされているのではないかということです。そこにプラトンの考えの一つの問題を見ることができるでしょう。われわれの日常は、つまらぬものや忌まわしいものも含んで存在しています。しかし、プラトンの考えではそれは、イデアなり形相の欠如に過ぎないのです。プラトンの流れを汲む、新プラトン主義者のプロティノスなどは、「悪」は、(「形相」と対立し物質的なものを意味する)「質科」に由来すると説きました。このような考えは、精神ではなく肉体から悪がくるというような、キリスト教的な思想の萌芽であるといえます。

話を近代の経験論者や功利主義者に戻しましょう。彼らにとって悪とは? それは「苦」です。カントは「根源悪」という考えを提起し、「自由」そのもののうちに悪を選択する可能性があることを指摘し、シェリングなどがそれを引き継ぎましたが、しかし、カント以前の哲学者らにとって、悪とはもっと身近なものです。われわれが日々感じる苦痛なり不利益が悪なのです。そこから、「最大多数の最大幸福」というような考えが生まれます。

さて、問題は、この「最大多数」に何が含まれ、何が含まれないのか、ということです。未来世代や死者らは含まれるのか、どうか。或いは、「苦痛を感じるであろう」と思われる動物らには適用されるのか、どうか。これらはいずれも難しい倫理学的難問です。

そして、「最大多数」に含まれぬ少数派の権利や幸福は切り捨てられていいのかどうか、というのも問題です。確か聖書だったと思いますが、百匹の羊より、一匹の迷える羊を救う云々がありましたが、例外者なりをどう扱うのかというのは重大な問題だといえます。

ところで、英語では功利主義とはUtilitarianismといいます。utility=効用、或いはマルクス的にいえば使用価値などとの結びつきが、原語でみるとよく分かると思います。19世紀末に、ベンサムの快楽計算(快苦計算)の思想を引き継いだのが、経済学者・論理学者のジェヴォンズであると言えます。彼は、「効用」(utility)概念を経済学に持ち込み、近代経済学の祖となりましたが、マルクス主義者からは、主観的なものは科学の対象にならぬ、経済学の堕落だなどと非難されました。日本でいえば、福本和夫の初期の著作にそのような批判が見られます。しかし、私は、それは一面的ではないかと思います。ドゥルーズ=ガタリマルクス主義者ですが、しかし単純で教条的なマルクス主義者なのではありません。『千のプラトー』(河出書房新社)という非常に刺激的で面白い本がありますが、それはジェヴォンズの効用概念に言及し深く論じています。主観的なもの、ないし「私は感じる je sens」の領域にまで踏み込んで、ロジックを作っていこうとしたもので、とても面白い試みだと私は思います。ドゥルーズ=ガタリマルクス経済学と近代経済学の中間にいるのです。彼らが盛んに引用するベルナール・シュミットという経済学者は、近代経済学からマルクス経済学に転向した人です。また、銀行権力を分析した人もよく言及されています。だから、彼らのマルクス主義は独特のものだといっていいでしょう。

いささか脱線が過ぎましたが、冒頭の話に戻れば、私はカント以降の倫理に反対であり、「拡張された」功利主義とでも言うべきものを支持すると表明したいです。拡張された功利主義とは、「われわれ」に入らぬものも顧慮する功利主義という意味です。自分の快や利益を追求するが、他者とも協調するような態度のことです。この「他者」にどこまでを含めるか、例えばベジタリアンがそうしているように苦痛を感じる動物(哺乳類など)まで含めるべきかというのは、今後の課題ですが、ともかく、われわれは想像力と共感能力を拡張しつつ、自他の利益を追求すべきだと思うのです。アダム・スミスは『諸国民の富(国富論)』で、他人が殺されることより、明日私の指が切断されることのほうがわれわれには恐ろしい、という意味のことを言いました。アダム・スミスの言うことには、当たっている面もあると思います。貧しい国々での搾取なり、悲惨な実態があるのを知りながら、われわれは多くの場合それを放置しています。他者の死より、自分の怪我の痛みのほうが怖いわけです。それはやむを得ない面もあります。しかし、われわれは、できるならば想像力なり共感能力を拡張して、本当に「最大多数」の幸福を目指すべきだと思うのです。