何故…

似非原君があかねに残していった思想書を客が来ない間読み耽り、懐かしいような感慨を覚えた。が、それにしても不思議というか残念なのは、柄谷行人ほど「明晰」を希求してきた思想家が、京都会議以後のQ-NAM紛争においては自己の情念の奴隷になってしまったという事実だ。

僕は自分の原稿でも書いたけれど、当時の柄谷行人の言説の悪質さは、いんちきな「知識人性」を誇示するところにあったと見ている。つまり、Lを理解できない奴は馬鹿だと。そりゃ誰だって、馬鹿なんて言われたくないから、分かってるフリをするさ。たとえ本当は分かってなくてもね。

それと、数々の本の著者としての柄谷行人と、情念の虜としての具体的な一人の生身の個人としての柄谷行人の齟齬、矛盾を率直に指摘した須栗・生井をNAMから除名する、と言い放ったことなど、多々問題はある。そして、そういう荒れた言動を諌める人が誰もいなかった。

柄谷行人はNAMには共産党と違い「除名」はないと公言していた。ところが、紛争になると、自分に逆らった奴は除名だ、と。そりゃ矛盾した態度っつーか旧左翼への先祖返りでしかないでしょ。

西部忠は気の毒だと基本的には思うんだが、彼に言いたいこともある。まず、NAMを退会せず、NAM規約委員会に留まって悪質な人格誹謗に直接反駁すべきだった。柄谷行人西部忠は代理戦争のようなことをせず、直接争うべきだったと僕は思う。

それから、杉原正浩西部忠の理論に加えた批判、それに対する西部忠の反批判も読んだ。が、経済学のイロハも知らない者には一行も理解できないような内容だった。が、思ったのは、専門家と素人が議論すれば素人が圧倒的に敗北するのは当然じゃん、ということ。西部忠がやるべきだったのは、経済学的知識の披瀝ではなく、もっと別のことだったように思えてならない。

勿論杉原正浩の批判の態度が良くない、誠実でないということは言えると思うが。それに対する西部忠の非難は正当だと思う。