無題

怨恨に囚われるのは愚かだ。そう思いつつ、寝付けないので物を書くことにする。
2002年、京都会議において。僕は深夜眠ってしまったが、早朝目覚めると、Qの登記人の西原ミミが「攝津さん、攝津さんが眠っている間に大変なことが起こったのよ」と言うから、「どうしたの?」と問い返すと柄谷行人が笑って「Qがなくなったんだよ」と答えた、ということがあった。

当時はその後の一連の展開は予測できなかったが、僕は非常に不吉なものを感じた。それに、その発言自体全く不当なものだ。Qを続けるかどうかは貴方の一存で決まることなんですか、柄谷さん? QはQ-NAM会員総体が全力を挙げて作ったものじゃないか。それを一存で存廃を決めるなど、傲慢も甚だしい。

そして、Q-NAM紛争に突入し、Q監査委員を募集した時、鎌田哲哉が応募してきた。それを見た私は柳原敏夫=朽木水に電話し、「これでQも終わりだ」と言った。そうしたら、柳原は、「鎌田さんは、無闇に誰にでも狂犬みたいに噛み付く人ではありませんから、大丈夫ですよ」と答えた。が、その後どうなったか。

「重力03」から寄稿要求されていた頃の話だが、鎌田哲哉からほぼ二週間に一回超のペースで、メールか電話で「人間の屑」と罵倒されていた。当時は鎌田に負い目があると感じていたのでそれにも堪えていたが、今は負い目があるなどとは一切思わない。

鎌田とやりとりするうちに分かったが、鎌田は誤解していたらしい。僕が批評空間社の内藤さんにQへの団体加入を無理強いしたかのように思い込んでいたのだ。内藤さんがそういう趣旨の話を鎌田にしたのかもしれないが、そういう事実は一切ない。もし内藤さんがそういう話をしていたとしたら、柄谷行人からQ加入を強制され、柄谷行人への批判ができなかったために僕から強制されたという話にしていたのだろうと推測する。が、全くもって迷惑な話で、僕は批評空間社からQに入りたいが手続きが分からないと言われて手伝いに行っただけである。何故Qを無理強いしたなどと謗られねばならないのか、まるで理解不能である。

内藤さんは癌で亡くなったが、柄谷行人が面会に行っても面会謝絶だった。柄谷行人はそれを内藤さんの奥さんの意思だと勘違いし彼女に怨恨を抱いたが(そのために内藤さんの死後、強引に批評空間社を解散した)、実際には面会謝絶は内藤さんの意思だったという。内藤さんは、柄谷行人は出版界の流通を変革するなど大口を叩いているが、現場は火の車で大変だと愚痴をこぼしていたという話を聞いたことがある。実際、書籍の運搬で腰を痛めたりしていた。ボランティアで学生に手伝ってもらったりしていたが、それでもやはり大変だったらしい。

いろいろと思い返すと腹だたしいことも多いが、もう終わったことは変えられない。人間諦めも肝心だろうと思う。