プレカリアート宣言/攝津正(フリーター全般労働組合)

以下の文章はかつて『アナキズム』誌に掲載されたものであるが、掲載から時間が経っていることと、私に原稿依頼してくれたNさんがcopyleftの支持者なので、インターネットへの掲載も歓迎してくれるだろうと見越して、掲載する。

1.
皆さんは「プレカリアート precariat」という言葉を聞いたことがあるだろうか。これはイタリアでのユーロメーデーでの落書きに起源を持つ言葉とされ、「不安定な」という意味の言葉に「プロレタリアート」を合成したものと言われている。私達フリーター全般労働組合では、昨年のメーデーで呼び掛け文にこの言葉を使い、日本国内の不安定雇用層はもとより、世界各国の貧民と連帯を確認し、闘ってきた。
では何故、「プロレタリアート」ではなく「プレカリアート」という言葉を使うのか、と問われるかもしれない。若干、背景を説明しよう。先ず、資本主義のありようの変化に言及する必要がある。第二次世界大戦後の冷戦構造において資本主義諸国が採用してきたケインズ主義的な福祉国家戦略は、旧ソ連と多数の社会主義諸国の体制崩壊とともに存在理由をなくした。また、かつてのような大量生産・大量消費型(フォーディズム)ではなく、高度な知識や技術が要求される労働が増えてきた。非常に単純化していえば、労働者のイメージが、工場労働者のイメージから頭脳労働者のそれへと変わったのだ。勿論、資本が求めるような高度な知識・技能を有する労働者は少数であり、それ以外の大多数の労働者は使い捨ての非正規雇用労働者で賄われることになる。こうした一連の過程を通じて、頭脳労働者(少数)も使い捨ての非正規労働者も、かつての工場労働者やいわゆる大企業の「サラリーマン」などとは比較にならないほど不安定な状況に置かれる。このような大状況のなかで、資本に対抗する労働者の連帯が求められる。その時、不安定な労働者=プレカリアートという言葉は非常に使い勝手が良いのだ。
プレカリアートとは、典型的にはフリーターである。だが、フリーターだけがプレカリアートなのではないし、フリーターという言葉でプレカリアート総体を代表させることはできない。政府なり行政が用いているフリーターという言葉から零れ落ちる多数の労働者がプレカリアートの範疇には入るのである。例えば、35歳以上の非正規労働者(教育産業やIT関連、福祉業界などに多数存在している)や零細自営、中小企業経営者、さらには農民やアーティストなど。こうした極めて多様な個別的状況に身を置く労働者が連帯し協働しようとする時、「プレカリアート」という言葉は便利なのである。
似た意味で用いられる言葉として、ネグリ=ハートやパオロ・ヴィルノ、日本では酒井隆史渋谷望などが用いている「マルチチュード」という言葉があるが、こちらは17世紀の西洋の社会思想(ホッブススピノザなど)にルーツを持つ専門用語であり、街路から発せられた草の根の表現ではなく、一部の知識層にしか共有されていない感がある。また文芸批評家のすが秀実は、彼独自の「68年革命」論とセットで、「ジャンク」という言葉を提案しており、ゴミとか屑とかいう罵倒を逆用して自ら名乗る面白さはあるものの(それは例えば「クィア」という場合と同じだ)、実態としてはそれほど流通していないと評すべきだろう(註1)。
私達フリーター全般労働組合は、「フリーター」を名乗ってはいるが、構成員が全てフリーターであるわけではないし、私自身も厳密にはフリーターではなく零細自営である。不安定化され非正規化が激しく進行した労働を巡る現状に批判的に取り組もうという意欲と関心を抱いた仲間が自ら声を挙げる時、「プレカリアート」というような言葉がぴったりくると感じ、現在も用い続けている。労働を巡る現状をどう名付けるか、というのは言葉の問題でしかないのだが、しかし表現を選ぶのは重要なことだ。例えば十年後、「プレカリアート」という用語自体が一般化し普及しているかどうかは分からないが、一旦生じた資本と労働の力関係の深刻な変化は恐らく不可逆的なものだろう。予言は慎まねばならないが、恐らく私達の世代は一生ずっと、自らの不安定さを抱えて生きていかねばならないのではないだろうか。資本主義の廃絶なりよりましな社会の発明などは中長期的な課題であろう。私達も自らの身の丈にあった言葉と行動で、社会変革の努力を継続するしかないのではないか。

2.
プレカリアートという言葉の来歴やそれを用いる理由については十分に説明したので、全面的に不安定化された生活を送る私達の実態、内実を語りたい。先ずもう何年も、年間の自殺者数が3万人を超えているということに言及しなければならない。これでも自殺者数はピーク時よりは減っているという指摘もあるが、それでもやはりこれは深刻な事態だと言わねばならない。雨宮処凛フリーター全般労働組合の賛助会員でもある)が野宿者支援雑誌『ビッグイシュー』で発言したように、この現実は或る意味で「戦争」として捉えるべきものですらある。マルチチュード概念やネグリ=ハートを熱心に日本に紹介している市田良彦が、日本におけるマルチチュード発生の兆候は自殺者数だと述べているのも、彼なりの感性で生そのものの根本的変容を感知しているのではないか。不安定化の極限は自殺という最終的選択である、といえる。実際、知人が自殺したり、知人の知人が自殺したという話を聞いたりする機会は増えているように思う。うまく表現できないが、真綿で首を絞められるように徐々に不安や苦しさが増していく皮膚感覚がある。誰某が死んだ、というような話を聞いても少しも他人事だとは思えない。明日は我が身、という感覚があるのだ。
その意味では、自殺ほど破滅的ではないにせよ、野宿者化というのも不安定の究極に近いありようと言える。既に杉田俊介(『フリーターにとって「自由」とは何か』の著者)は、釜ヶ崎で長年野宿者支援活動を行っている生田武志の発言を引用しつつ、フリーターの一定部分は野宿労働者化するだろう、と診断している。野宿労働・野宿生活というのも、やはり明日は我が身という切実な想像力の働きを喚起させるものだ。最近では、大阪の長居公園での世界陸上を口実にした野宿労働者のテントの強制撤去事件があり、私達フリーター全般労働組合の仲間達もそれへの抗議に賛同している。怠けている人、働く気がない人が「自己責任」で野宿者になるのではなく、単に運が悪い人がたまたま野宿者になってしまうのであって、現に私が野宿していないのは運が良かったからに過ぎないし、それすらいつまで続くか分からない、という構造が日々あからさまになってきている。誰かの本の題名にあったように、中流は崩壊しているし、いつ最底辺に放り出されても不思議ではない、そんな現実になってきている。去年、自立生活支援センターもやいの事務局長・湯浅誠の話をうかがう機会が二度ほどあったが、持たざる者らになお追い討ちを掛けて酷い扱いをする行政の対応など、憤りを禁じ得ない現実(その極端な例が北九州市生活保護申請門前払い事件だ)が多々あることが分かった。
それから、直接・間接に労働の辛さと関連して、精神病・精神障がいを負う人達が本当に多い。私自身も精神科に通う膨大な病者群の一人だが、一旦病気なり障がいを負うと、厳しい労働に復帰するのがなお難しくなる現実がある。特に年々激務になってきている正社員に復帰するのは至難の業だ。私の知り合いで、鬱病で数年休職した後正社員になろうとした人がいたが、何十社受けても受からず、今仕方なしにアルバイトで暮らし、将来は生活保護しかないだろうと語っている。そういう人が相当数存在しているであろうことは推測できる。私自身も、正社員として企業に勤務した経験はないし、将来もそれはできないだろうと感じている。私達フリーター全般労働組合の友好団体として、PAFF(全ての非正規労働者のためのネットワーク)があるのだが、それに全国「精神病」者集団の山本眞理に参加していただいている。日本の福祉行政は例えばヨーロッパなどに比較すると貧弱だという厳しい現実はあるが、日本における基本所得ベーシックインカムに近いものとして、生活保護障害年金を積極的に勝ち取っていく闘いの必要性を感じる。最低限、日本国憲法も謳っている人間らしい文化的な生活を万人に保障すべきだ。どんな働き方、生き方をしていようと、その人らしく個性的で多様な生を送る権利は誰にでもある。それを保障できないなら日本には「国家」としての存在理由がないとも言えるだろうし、もし日本国家が生を保障しないのならば私達の草の根の連帯や協働の力で自由と生存を勝ち取っていく以外にない。
以上自殺・野宿・精神病と生の不安定化のネガティブな帰結を挙げてきたが、これらは決して特殊なものではなく、誰にでも起こり得るということ、過酷な労働環境下で運が悪い人がそうなるに過ぎないことを強調しておく必要がある。私がこのように暗部ばかりを並べ立てると、「しかし、大多数は『普通』に労働し生活しているのでは?」と反論されそうだが、果たして本当にそうだろうか。そもそも現状では、「普通」に働いて生きていくということ自体が困難である。先ず正社員であれば、年々労働は過酷になり、要求されるスキルも高度なものになってきている。さらに、今国会での提出は余りの反撥の強さに恐れをなしてか見送られたが、残業代ゼロ法案=日本版エグゼンプションなる悪法まで画策されていた。正社員として働くことの過酷さは、将来も増しこそすれ決して減じはしないだろうと予測できる。また、フリーターやパートであればどうだろう。安倍内閣の「再チャレンジ」の一環としてパートの待遇改善を目的とした法案が提出されるが、それが対象とするのは全パート労働者の4-5%に過ぎないことを担当大臣が答弁で認めている。非正規労働者の待遇改善など全く誤魔化しでしかなく、現実の不平等なり格差なりを是正する意欲が為政者にないのは明白だ。私達はそのことを明瞭な言葉で批判していく必要がある。
労使関係や労働環境の変化について言えば、例えばフリーター問題に取り組むPOSSE関係者などの話をうかがっていても、基本的に勝ち組(だと自分自身を表象している層)に属する資本家=経営者の感覚が変わってきているのが分かる。労働者を物ではなく人間として扱うとか、労働関連の法律を遵守するといった精神がどんどん衰え、非人間的(非人格的)な態度や端的に違法な対応(例えば、若い奴には賃金を払わない(!)などといった)があからさまになってきている。資本主義は、かつての剥き出しの野蛮な姿に逆戻りしつつあるのだ。というか、いわゆる発展途上国第三世界ではこれまでも常に野蛮であったのだが、それがいわゆる先進諸国でも当たり前の態度になってきたということなのである。それは「第四世界」の形成などとして語られている事柄である。
そうした残酷な現実に対して私達には何ができるだろうか。先ず本質的なことは、死なないということ、生き延びるということである。新自由主義が自己正当化するイデオロギーとして際限なく蔓延する「自己責任」論のせいで、状況が悪いのは「自分のせいだ」と思い込んで死を選んでしまうのが一番勿体ない。死ぬくらいなら自分を追い詰めている者らと闘うか、一旦逃げて休むかすべきだ。確かに現状の資本主義社会を変革するのは容易ではないだろうし、私達フリーター全般労働組合も何か特効薬やら魔法の処方箋を持っているわけではない。今の資本主義は本当に酷いものだが、それを今すぐ廃絶するとかどうこうすることは確かにできない。しかし、既に私達が勝ち取ってきている憲法や法律の範囲でできることも沢山あるというのも事実だ。例えば、憲法が保障する人間らしい文化的生活。さらに、労働関係のもろもろの法律が設定している労使関係におけるルールなどがそれである。日本版エグゼンプションに代表されるように、そのルール自体をなし崩しにしようとする動きには断固反対しなければならない。新自由主義的な「改革」「規制緩和」(実のところは、弱肉強食の恥知らずな肯定でしかない!)に反対する私達は、ともすれば「保守的」だとか「ダサい」などと嘲笑されるかもしれないが、権力者が自らの欲望を思うままにしようとするのを放置すべきでは絶対にない。繰り返せば、今生きているという誰も否定できない現実から出発し、既に勝ち取られている法や諸権利を擁護していくことが必要だ。労働時間規制や最低賃金などのルールを撤廃しようという策動や、残業代やさらには賃金自体を払わないなどという資本の側の無法を許さないという毅然とした態度が求められる。当たり前のことを言うしかないのだが、そうした原則を確認していかねばならない。
最後にフリーター全般労働組合の取り組みを紹介したい。先ず、フリーター・メーデー=「自由と生存のメーデー」を2005年、2006年と継続して取り組んできている。街頭で陽気なサウンドデモをやってきたが、2006年には不当弾圧を受け3名の逮捕者を出した。が、仲間を奪還する救援や「やり返し」の取り組みに繋げていった。2006年の取り組みで、「プレカリアート」という言葉を採用したのは既に述べた通りである。また、日々の活動として、労働相談や団体交渉などを行っている。それから、日本版エグゼンプションに反対する共同アピール運動にも賛同参加している。昨年末から新宿に事務所を構え、派遣や偽装請負の問題等に取り組んでもいる。今年もメーデーに取り組む予定なので、是非注目し参加してほしい。組合員や賛助会員も募集しているので、お気軽に連絡していただきたい。union@freeter-union.org

註1 すが秀実はジャンクという言葉をマルチチュードという概念の破天荒な能天気さ?への批評として提起している。が、ジャンクという言葉で表象されるものの政治的位置は曖昧である。すが秀実自身がジャンクのJは日本=JapanのJでもある、と語っている。また彼は、ジャンクが「受動的革命」を実現すると語っているが、「受動的革命」とは「ファシズム」をも説明する概念ではなかったか。近年の彼が文字通り、「ファシスト」を自称する外山恒一を熱心に支援しているのは偶然ではないと思うのは私だけだろうか。また外山恒一を考慮に入れずとも、不安定化され周縁化された若年層が右傾・反動化する傾向も懸念されているところである。例えば『論座』2007年1月号に掲載された赤木智弘の投稿は、プレカリアート化された身の上を嘆き、「閉塞感を打破」するために戦争を待望する(!)といった内容である。そのような主張が平然となされ、受け入れられつつある日本社会というのは、真剣に憂うべきではないだろうか。

赤木智弘の主張については以下を参照していただきたい。

http://www7.ocn.ne.jp/~gensosan/20060729.htm
http://d.hatena.ne.jp/kyoto_jack/20061210
http://list.jca.apc.org/public/aml/2006-July/008111.html