RAM断想続き

爽風会佐々木病院に行き、H先生の診察を受ける。元気だと伝え、私のメルマガを渡す。帰宅時、コジマデンキに寄り、一番安いCD-Rを買う。待ち時間、ドゥルーズ『狂人の二つの体制』を読了。妄想型/情念型といったクレランボーの区別を再び取り上げることに何の意味があるのか、疑問に思う。

RAMカタログについてさらに批判的な考えを進める。私が違和感を感じたのは、RAMカタログの一部の人達が、象徴天皇憲法1-8条をそのまま受け入れつつ、天皇の意向と結びつけて反戦平和を語ろうとしたことだ。私は、9条改憲阻止、ないし9条の理念の一層のラディカル化(ひびのまことが提案しているような)に賛成なのであって、天皇条項も含めた「護憲」には賛同しない。天皇制批判抜きに9条だけ称えるといった仕方には激しく疑問を持つ。また、中国の反日デモに関しても、RAMのメンバーは反発を表明していたが、私は、確かに反日デモに体制批判に向かえぬゆえの屈折があるとしても、日本帝国主義には批判されるべき多々の問題があるのだから、反日デモを支持するのは当然だと考えていた。

また、RAMの人達は、ラムズフェルドアメリカのネオコンが元トロツキストであって、世界同時革命とか永久革命といった夢想を転向後、アメリカの世界制覇戦略に向け変えたのだと解釈しているが、左翼とネオコンのそうした恣意的な結び付けにはイデオロギー的な偏向ないし偏見しか見出せず、私は全く同意できない。

簡単にいえば、私は典型的な或いは普通の左翼であったのに対し、RAMのメンバーは左翼批判を望んでいたということだ。

田口卓臣や木原進が、日本には「楽しいデモ」がない、フランスなら道一杯に広がってデモがやれるのに、と不平をこぼす時、私は違和感と不満を覚える。フランスなりがどうであろうと、われわれが今生きているのは日本なのだから、日本の現実的諸条件下で闘争せねばならないのは当然のことではないか? としか思えない。また、日本でも「楽しいデモ」は可能であり、サウンドデモとして各地で実現されている。が、彼らがサウンドデモの新しさに注目したというような話は聞かない。要するに、彼らは日本の「現に存在する」左翼運動や社会運動を知らないし、知る気もないのだ。それは根本的な欠陥だと思える。

狂人の二つの体制 1975-1982

狂人の二つの体制 1975-1982

はまぞうはてな)やおすすめレビュー(mixi)はRAMカタログがやろうとした「商品カタログ」を部分的にであれ実現していると思う。勿論それは資本主義批判ではなく、資本主義的な仕方でなされているわけだが。

今の根本的な問題は、新自由主義ネオリベ)と呼ばれる勢力の世界大の支配である。それに対抗する言説と実践を構築しなければならない。体制側が「新」自由主義を言うなら、われわれ対抗運動の側は、新たな「経済学批判」、新たなマルクスを必要とする。資本のシニシズムが極地に達したこの地点において、資本主義を無際限に肯定することを拒否するわれわれ活動家には、何ができるのか。例えば、G8に対して、グローバル資本に対して、どんな抗議なり表現行為ができるのか、を問う必要があると思う。

新自由主義サッチャーレーガン・中曽根政権の時期から実行されていたが、われわれの生活が根本的に破壊されつつあるのは近年のことである。或いは、根本的な破壊に気付いたのは最近のことだと言ってもいい。ソ連崩壊以後、オルタナティブを想像する能力が、われわれ草の根の民衆なり活動家から奪われてきた。左派を侮蔑する者らは、中国や北朝鮮の人権侵害を声高に言い立て、これが君らの望む体制だと嘲る。が、われわれはそんな政府を支持しないし、それが社会主義だとも思わない。

脱線。ドゥルーズ=ガタリに一点だけ疑義を呈する。彼らにあっては、「生の無条件肯定」ではなく、ニーチェ主義的な「選別」がある。つまり、永遠回帰に堪え得ないものは回帰しないのである。この或る種の哲学的エリート主義をどう捉えるか。キルケゴールハイデガーの非人称で匿名の人(世人)への非難に抗い、ドゥルーズは『意味の論理学』で匿名の人 onを称えた。が、それは、日常生活を生きる凡庸な人の生の肯定ではなかった。ドゥルーズが肯定したのは、文学テキストにおける非人称の呟きであって、日常会話の生き生きした声ではなかったのだ。日常なり凡庸に定位し、それをまるごと肯定する思想が必要だと私は思う。

話を戻せば、私は天皇制に肯定的に言及しつつ、9条の平和主義を擁護するといった欺瞞的なやり方に絶対に反対だ。天皇制は端的に廃棄すべきものであり、個別の人格としての明仁がたとえ平和主義的な意見を持っていたとしてもそんなことは全く関係ないのであって、無名の草の根の民衆、活動家の平和意志こそが重要なのだ。

小泉-安倍自民党にも反対、天皇制にも反対というのが私の揺ぎないスタンスである。天皇のような偽の超越を持ち出して、世俗政権を批判したところで意味がない。天皇制を含め日本の支配体制総体を批判しつつ、世界大の権力との闘争を構築すべきなのだ。