RAMの位置づけとその歴史

雨宮処凛──プレカリアートのマリア(笑)──と社民党党首の福島みずほの対談イベントがあり、フリーター全般労働組合の一員として参加し発言してきた。イベント自身は可もなく不可もなくというか、一般的な非正規・不安定状況の拡大という現状が確認されたに留まったと思う。が、この集会に、6-7年前NAMで知り合った美術作家の北川裕二が『マガジン9条』をやっているパートナーや友達と参加してきていて、久々の再会を祝い、少しお喋りした。

それでこの機会に、Q-NAM問題におけるRAMカタログ、または岡崎乾二郎とその仲間達の果たした役割とその意味を再考しておきたい。そもそもRAMカタログは、NAM芸術系のML議論(「NAM的芸術とは何か?」を延々と問うような非生産的なもの)に飽き足らぬ者らが、横断的にもろもろの「関心」を超えて結集したプロジェクトだった。それは、Whole Earth Catalogを参照し、地域通貨LETS-Qの「商品カタログ」を作ることを目指した、極めて実験的で面白いプロジェクトだった。

今は「カフェ・コモンズ」で頑張っている福井哲也が、北川裕二や田口卓臣菅原正樹岡崎乾二郎と論争したことがあったが、福井の問いは正鵠を得ていたといえる。つまり、何故Q商品カタログという慎ましい要求を掲げて出発したはずのRAMカタログが、オルタナティブな百科全書という誇大妄想的な企てに変貌したのか? という問いである。その問いは、実際には簡単に答えることができる。『百科全書』の編集者であるディドロを研究している田口卓臣がRAMに参加し、長く密度の濃いメールを何通も送ったため、RAM自体のコンセプトが変貌したから、というのがその答えだ。RAMの実質的な主導者が、北川から田口に交替したことで、カタログという世俗的なものから、百科全書という途轍もないものへと創作の対象が変貌したのである。

そして勿論、RAMカタログ・プロジェクトはその目的を達成できなかった。Q商品カタログを作ることも、対抗的百科全書を作ることも頓挫した。

岡崎乾二郎は、NAM会員へのQ加入義務化に関し、極めて論理的且つ強力に反対している。その尤もな議論を「独走的」などと揶揄し批判したのは柄谷行人である。彼は強引にQ義務化を推進し、その結果、岡崎乾二郎と北川裕二はNAMを退会し賛助会員になった。後に柄谷行人は、岡崎乾二郎や湯本裕和がNAMを辞めたのは西部忠とQのせいだと論難するが、それは滅茶苦茶だ。文脈を辿るなら、柄谷行人の強引な意思決定、そしてそれに伴うNAM会員の「個」としての自立的意識の喪失=官僚化が彼らをNAMから離れさせた原因だったのであって、西部に責任を負わせるのはおかしい。

Q-NAM紛争において、岡崎乾二郎は、NAM抜本的改革委員に就任した。そして、そこでの言動に関し、彼には一定の責任があると思う。某氏から聞いた話では、当時浅田彰柄谷行人の荒れた言動を止めようと必死に説得を試みていたが、浅田が諦めた後は誰も止める人がいなくなったのだという。そのような状況においては、柄谷行人の文字通りの「独走」を止められる人物が誰かいるとすれば、それは岡崎乾二郎を措いて他にいなかったのではないか。が、岡崎乾二郎柄谷行人を強く制止したり戒めることはなかった。むしろ、大学人同士、インテリ同士の馴れ合いといった態度だったのである。岡崎乾二郎は、もし地域通貨Qをオモチャだなどというのなら、市民通貨Lと呼ばれていたものも同様にオモチャだ、といった認識を持っていた。が、それを公の場で発言することはなかったのである。公の場で真意を語らないということは、本音と建前の二重化という典型的に日本的な構造に屈服するということでしかない。その意味で、岡崎乾二郎には一定の責任があると思うし、NAM解散後『文学界』の鼎談でNAM総括?をした時の発言なども単に軽薄である。NAM、そしてQ-NAMの一連の問題性をその深部から抉る総括では決してなく、柄谷行人の偉大さ?を称えるといったタイコモチ的な身振りに終始したのである。

私は、岡崎乾二郎のことを知らなかった。RAMプロジェクトのため、北川に呼ばれて会議に参加して初めて会い、岡崎乾二郎のことを知ったのだが、その頭の良さとスマートさには驚嘆した。Kも言っていたように、岡崎乾二郎は典型的な「天才」である。私は生まれて初めて、本物の芸術家と会った、と感じた。岡崎乾二郎は、汲めど尽きぬアイデアを惜しげもなく次々に繰り出す驚異の人であった。私は、人間がこれほどに生産的且つ能動的であり得るという事実に単に驚いた。だが、私自身のことも含めて、RAMには岡崎乾二郎というカリスマ、固有名に依存し過ぎる傾向、スノッブ的或いはディレッタント的な傾向があったとも思う。RAMでの最良の発言者である田口卓臣もまた、そうした傾向を免れていなかった。私は、NAMが顕教的だとしたら、RAMは密教的だと考えたことがある。そこには、「表」で語られない何かがあからさまに語られる自由な場があった。NAM芸術系などで披瀝されることの決してなかった批評なりがそこにはあったのである。岡崎乾二郎は「RAMはNAMより大きい」と自慢していたというが、それにも一理あると頷ける。RAMには、福井哲也など関西の一部を除くNAMの主要メンバーが全員入っていたからである。NAMでアクティブな活動をしている者はほぼ全員がRAMだった。RAMは、NAMの最深部にある、或るサロンだったのである。そこでは社交が行われ、挨拶や交流などが為されていた。NAMの主要なML──関心系・地域系・階層系──の大部分では、型に嵌った発言や形式主義が罷り通り、事大主義的であって、創造的な息吹がほとんど感じられなかった。その点、RAMには自由と創造の契機が豊富にあった。何一つ実現しなかったとしても、RAMは何事かであった。一言でいえば、それは出会いだった。ほとんど不可能な出会い。

が、RAMの人達はみんな紳士的で、理性的で、慎み深く、心優しかった。だから、Q-NAM紛争のような深刻なトラブルに際しては、何か積極的に介入することが全くできなかったのである。のみならず、そうした紛争を積極的に忘却したり、抹消したりしようとした。例えば、私が旧RAMカタログMLで、紛争を公に語ることを呼び掛けたことがあるが、その時岡崎乾二郎は即座にMLの設定を変え「投稿不可」にした。泥沼のような非難合戦を恐れたのかもしれない。が、そこで何か有意義な対話が始まる可能性もあったのであって、岡崎乾二郎の対応は臆病過ぎたと私は思う。ともあれ、RAMのメンバーは、Q-NAMの一連のごたごたに関して、一切責任を取ってこなかったというのは事実である。私は最近、RAMを批判し脱退したのも、基本的にはそのことが原因といえる。