概観
何故NAMにコミットしたか?
私は早稲田大学在学中(学部及び大学院)、学生運動なり左翼運動に対して批判的であり、自らはほとんど関与しなかった。(「新学館闘争」は別である。)それは当時(1994-2000年)の早稲田大学が、革マル派http://www.jrcl.org/と呼ばれる左翼セクトに実質上支配されていたからだった。
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これと、これ。
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私は、彼・彼女らが「内ゲバ」と呼ばれる紛争で多数の死傷者を出していたのに、そのことを公的に総括・反省せず、かつての自らの暴力性を隠して活動していることに、強い批判を抱いていた。
また、早稲田のノンセクト・ラジカルの運動も問題的だった。当時から今に至るまで、早稲田のノンセクトの運動を指導・支配しているTという人物がいるが、彼の手法は民主主義的でなく、精神論・根性論に終始していた。そしてそういう運動に希望を見出せず、私の友人の多くは精神的に破綻したり、転向したりした。そのことに対して怒りを抱いていた。
NAMの運動を文芸誌で知り、早速インターネットで検索してNAMの原理を読み、ただちに賛同したが、その理由は主に次の2つだった。
- NAMが非暴力を掲げていること。
- NAMが参加的民主主義を掲げていること。
私は、レーニン主義的な「党」建設を謳う左翼に共感したことは、いまだかつて一度もないが、NAMは徹底的に非暴力を貫いて革命を目指し、且つ、組織内において参加的民主主義を貫くことを謳っていた。私はそれに、旧来の左翼運動の欠陥を率直に認識し批判する身振りを見て取り、好感を抱いた。
しかし、始まったばかりのNAMは、早くも崩壊の危機を迎えていた。スペースAKにおける空閑明大らの一派が、NAMを「党」的に独占しようとしていた(少なくとも、他者に恫喝などを繰り返していた)という問題があったのである。私はその問題があることを知って、NAMをただちに辞めようと考えた。というのは、こうした紛争に関して、私がやれることは何もないと思ったからである。辞めなかったのは、柳原敏夫=朽木水(NAM法律系代表)らに人間的な共感を抱いていたからであった。
初期NAMの大阪/東京の不毛な対立は、柄谷行人の「独裁」的身振りにより、つまり自らの権威と権力を最大限発揮し、異論を唱える者を容赦なく排除するといった仕方で、終息した。当時の柄谷行人のNAM代表としての権力発動には、賛否両論であり、例えば後にNAM代表になる田中正治などはその権力主義的な手法にあからさまな嫌悪の念を表明していた。つまり、かつての新左翼そのもののやり方だというのである。ここにNAMの理念と実態の大きなズレという深刻な問題が表面化した。つまりNAMは、理念としてはかつての旧左翼や旧新左翼などを理論的にも実践的にも乗り越えるはずのものであったのに、旧来と変わらぬ権力的手法を用いて運営されていたのである。そしてその権力主義が、NAMがまだ未成熟であるという理由で正当化された。が、しかし、後のNAMにおいても、Q-NAM紛争というかたちで繰り返されるのである。
NAM官僚として
私はNAM内部で、NAM官僚として振る舞った、というよりもそうしようと努力した。というわけは、NAMにはまだ、ちゃんとした組織も、システムも欠けていたからである。私は自分の非力を自覚しつつ、今は過渡期なのだからと自らに言い聞かせて、媒介者としての役割、つまりシステムを構築し、議論を活発化させる者としての役割を担おうとした。
NAMの内部事情をいえば、その出発の責任者の一人である、NAM協同組合系の代表・高瀬幸途は、NAMに集まってきた学生らや若者らを見て、早々にNAMを見限ってしまっているという状況があった。私は、そうした状況を深刻に捉えつつ、彼を見返してやりたいとの思いでNAMの運営に尽力した。
Qプロジェクト
NAMは停滞していた。そのなかで、これしかない、と賭けるように打ち出されたのが、地域通貨LETS-Qのプロジェクトであった。それは北海道大学の西部忠が主導したものであったが、NAMの理論は、簡単にいえば地域通貨などアソシエーション的交換を深化・拡大することで資本制を揚棄するというものだったので、LETSはいわば理論的・実践的な要であった。多数のNAM会員がQプロジェクトに関わり、尽力するというのは自然な成り行きだった。
しかし、現場では深刻な乖離が自覚されていた。つまり、理念としては国家と資本の揚棄を謳いながら、自分達が実際にやっていることはフリーマーケットの開催でしかないというあまりにも大きなズレをどう捉えればいいか、迷いがあったことも事実なのである。そんな中、紛争が勃発した。
柄谷通貨戦争
きっかけは、柄谷行人がQプロジェクトのオフ会(京都・南無庵で催された)に出席したことである。柄谷行人は、徹夜で西部忠を問い詰め、Qの幹部である宮地剛と穂積一平を辞めさせるように迫った。西部忠は最後まではっきりした返事をしなかった。結果、柄谷行人は、近畿大学の市民通貨プロジェクトへの招聘を取り消すメールを西部忠に送り、それを北海道大学に通知したのである。
そのことをきっかけに、柄谷行人と西部忠の関係は悪化した。のみならず、NAMとNAMが生み出したQの間の関係も滅茶苦茶になっていった。この対立が表面化したのは、柄谷行人による『Qは終わった』というエッセイの対外的公開であった。それは、かつて一緒にやってきた人達への、非情な罵倒の言葉が綴られ、そしてありもしない贋物の「希望」が語られていた。つまり、結局現実化しなかった「市民通貨」というやつだ。
柄谷行人と関井光男らパシリは、Qを告訴する、といった虚喝を繰り返し、NAMは組織としてもう持たなくなっていた。NAMは何ら実りがないまま、無様なかたちで解散した。
NAM再建
NAM再建はほとんど不可能なように思われる。多くの人達にとって、NAMの経験は思い出したくない過去である。理論的にのみならず、人間的にも傷を負ったからだ。また、他者を傷つけもしたからだ。
日本における、全く非暴力的で民主主義を貫くような左翼の実験は、失敗に終わったと言わざるを得ないかもしれない。しかし、その瓦礫の中から、新たな生命なり運動が生まれてくることを私は願っている。
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