雑感

恐らく「考える」レベルでは問題がないだろうが、「話す」或いは「書く」レベル(表現)では問題になるであろう事柄がある。さらに、「行動する」レベルで問題になるであろう事柄がある。

例えば、殺人を含めて、それを空想することは自由だろうが、実際に人を殺してもいいかどうか、は問われるべきだろう。そして、仮に「人を殺すべきではない」というなら、ではそれは無条件に・どんな場合でもそうなのか、それとも例外があるのかどうか、が問われ、戦争の場合はどうか(憲法)、緊急事態の場合はどうか(刑法)などと吟味される必要があるだろう。

また、特に差別に関しては、表現に関しても、全く自由でいいのかどうかが問われるはずだ。「オカマは差別か」については、ポット出版から論争が本になっている。性表現についても、さまざまなケースについて問題になり得る。ポルノグラフィが女性なり弱者(例えば、子ども)を搾取したり傷つけていないかどうかが問われる。

規範なり規則との関係で、倫理が問題になる。多分思考なり空想のレベルでは、全てが自由だと言えるだろうが(子どもが人形の首を千切ったら、それを重大事として咎めるような人がいるだろうか)、表現なり実行行為のレベルでは問題が生じる。さらに、倫理的な問題に関して、一々専門家、倫理学者の意見を聞きそれに従わねばならないのかどうかも問われるべきだろう。(そんな必要は全くなく、慣習なり習慣だけで十分だという主張もあり得る。)

表現行為に関しては、その価値に関して、倫理的な問いとは別に、美学的或いは批評的な問題が生じる。例えば、かつての前衛芸術で、ピアノの前に座り何も弾かない(ケージ)とか、ビルからピアノを落とすとか、ピアノを燃やし消防士の服を着て演奏する(山下洋輔)などがあったが、これらのパフォーマンスの「価値」は誰がどう決めるのか、判断するのか。