NAM再建に際しての逡巡

NAM再建に関して、いろいろと思い悩むことが多々ある。

  • 端的に言って、柄谷行人の固有名と無縁なNAMなんてあり得るのか? アソシエから分裂したそもそもの経緯からして、柄谷行人ヘゲモニーを握るために設立されたようなものではないか? 柄谷行人抜きのNAMなんて、麻原彰晃抜きのオウム真理教アレフみたいなものだと思う。といって、TCXみたいに、安易に名前を変えつつその理論=原理だけは無傷のまま保持し続ける、といったやり口はいかさまだし卑劣だと思う。では、どうすればいいのか?
  • NAMの原理自体が既に疑わしい。が、資本や国家、ナショナリズム等々の欺瞞を端的に、且つ公然と批判する言葉と行為は絶対に必要だ。そうした批判がNAMという名前を持つ必要は特にない。資本主義のシニシズムや消費社会が強いる受動性や諦念にあくまでも逆らっていく、そうした運動が必要なのだ!