柄谷行人は、超越性の思想家

柄谷行人は、超越性の思想家だね。彼には内在性とか生成、差異、多数多様体などが分かっていない。マイナーなものへの生成が何故革命的なのか、無意識の欲望のラディカルさなどを理解していない。柄谷行人は、超越と否定をもってことにあたる。ヘーゲルを否定しているが、実質的にヘーゲリアンだ。デカルトスピノザを論じていた頃には魅力があったが、カントに嵌って彼は変わった。それと、若い頃からの、頑固なマルクス主義マルクスと言い続けさえすれば、ラディカルだ、と言わんばかりの態度だ。マルクスの頃と比べて、時代はすっかり変わってしまったのに、何故延々とマルクスを参照し続けなければならないのか。『資本論』を読破しないと革命はできない、というような思い込みが何故この21世紀においてさえ必要だと言うのか。僕は、全くそうは思わない。

柄谷行人とNAMは、現代版の革マルだと言うことができる。「理論の革マル」とよく言われたが、NAMも理論、理論、ひたすら理論……で他の運動体を超越し、高みから批評するといった傲慢な態度を取っていた。柄谷行人自身は今でもそうだ。先の見えない運動の現場で、身体を使って闇の中での跳躍を敢えてする、ということを彼は決してしない。言葉、言葉、ひたすら言葉……。「終焉」を巡るお喋りに興じるばかりで、実践的に何かを想像/創造することがない。何かを楽しむことも、脱力することもない。延々と、国家と資本を揚棄する、揚棄する、揚棄する……とオウムのように繰り返している。それは柄谷信者らも同じだ。

はっきり言っておきたいが、book cafe経営の某氏や熊野大学の常連の某氏のような、分かり易い狂信者だけが柄谷信者なのではない。表面上、信者であることを否定し、アイロニーによって距離を取っているかの如くに装っている「知的」な連中が一番悪質な信者なのだ。僕はそういう人達に数多く会ってきた。彼・彼女らは、自分らはうまく立ち回っていると、決して騙されないと思い込んでいる。だが、それは愚かな錯覚だ。カラタニズムの生成を許したのは、この人達だ。この人達はいまだに反省なく、柄谷行人を支持・擁護している。信じ難いことに!