もろもろの考察

音楽について
音楽を思考し、批評し、判断するのは難しい。趣味、言い換えれば感性=美意識(快/不快等)を排除するのは難しいし、しかしそれが歴史的、社会的に構築されたものだということは明瞭だ。

現代音楽を快いと感じる「耳」と、小室哲哉などのJポップを快いと感じる「耳」は「等価」なのか。それは、悪しき相対主義に過ぎないのではないか。しかし、それを悪しき相対主義として退けるならば、一種「絶対的」なよい・わるいの基準としての感性=美意識を前提することになる。

シェーンベルクの弟子でもあった思想家アドルノは、ジャズが商業主義であり、大衆迎合的であるとして全否定するような論陣を張った。アドルノの高踏的な議論(現代音楽のみが価値ある芸術だというような、それ)を支持する人は今いないだろうが、彼の提起した問題は残っている。

高橋悠治は、ジャズの「理論」なるものの大半(コードやモード等々)がヨーロッパ音楽からの表層的な剽窃・ぱくりであるとして切って捨てた。確かに、菊地成孔なども指摘しているように、ポピュラー音楽の共通の文法になっているバークレー・メソッドは一定段階のヨーロッパ音楽の諸規則を簡素化・通俗化したものに過ぎない。だが、ポピュラー音楽には、全く独自の価値がないものなのか。ジャズであれば、スイングとかブルースとかブルーノートとかいう、形式化し切れない「何か」がある。それを安易に黒人ナショナリズムと結びつけるのは良くない政治主義だとは思うが、ここに何か独自なものがあるのは確かだと思えるのだ。それまで全否定してしまっては、草の根の民衆が絶えず音楽を再発明し再創造する契機そのものを否定することになってしまう、と思う。

昨日の音楽講義でも話したのだが、大半の難しげな音楽「理論」はこけ脅しである。楽典を知らなくても音楽はできるし、演奏もできるし、曲も書ける。例えばカウント・ベイシー楽団などその一例だし、初期のロック、パンク、レゲエ、ラップ、ノイズ系などもそうだろう。楽譜が読めず、楽典を知らずとも、一種の「器用仕事」として音楽創造は可能なのだ。私は、そのことを強調した。音楽を徹頭徹尾、生産、創造、表現という観点から考えることで、生き生きとしたものを回復しようと志した。

私が新たにHem-tieと名付けた新たな音楽ジャンルも、ジャズをベースとしつつ、ジャズの諸規則に囚われずに自由に伸び伸びと創造し表現しようという趣旨のものである。この方向で考えた人達は既に多くいる。オーネット・コールマン佐藤允彦などがそうだ。プロ/素人という対立や、知識や技術の十分でない者らの排除を乗り越える、新たな協働の道を切り開いていきたいと思う。

音楽に関する考察 続き
シンプルに、自由に、愉しくやればいいのではないか、とも思う。だが、一見自明にみえる「自由に、愉しく」というのが実際には、広義のロマン派的なものでしかない点を、昨日の講義では指摘した。

私達の感性=美意識は歴史的、社会的に構築されたものである。「耳」は作られているのだ。例えば、TVその他から流される、音楽の洪水。基本的にそれらは、広義のロマン派的なもの、言い換えれば悲しいとか元気が出るとかいった情緒を「自己表現」していると看做される音の組織化である。

TVなどのバックミュージックも、一定の陳腐な規則に則って(バークレー・メソッド?)編曲されたものだ。それらは常にどこかで「聴いたことがある」かのような印象(錯覚)を齎すものだ。

演歌・歌謡曲はさらに露骨で、一定のパターンを飽きもなく繰り返している。

こうした状況にあって、音楽「理論」とか音楽「批評」の多くが欺瞞的なものや虚仮脅しに過ぎないことを、私は指摘した。私の関わっている業界で言えば、カラオケのTV番組の審査員のシステムなどがそれだ。歌番組に、素人が出演して、先生と称される人があれこれ批評するのだが、それは基本的に、既成の規則の幾つかを無批判に適用しているだけだ。

草の根の大衆という表現を私は使ったが、実際は、大衆の大多数は、陳腐な音の組織化、演歌・歌謡曲やJポップなどを好んでいる。創造の契機はほとんどないかに見える。しかし、私は諦めていない。

音楽の歴史を振り返ると、常に音楽は少数の限られた人達のものであり続けたことが分かる。或る時期まで音楽は教会のものだったし、次いで一部の貴族達のものになり、それから富裕な市民層(ブルジョア)のものになった。しかし、今では、厖大な庶民大衆が、CDやラジオ等々を介して、言い換えればベンヤミンが言うところの複製技術を介して音楽に親しんでいる。この状況そのものは、肯定されるべきである。肝心なのは、メディアの効果を画一化・没個性化に向かわせるのではなく、特異化に向かわせることだ。だが、それは案外に難しい。

私達の骨身に、ロマン派的な感性というのは染み付いており、それを批判的に相対化するのは難しい。一見「自然」「自明」に思える諸規則を自覚し、そこからズレていくというのは容易なことではない。だが、恐らくは不可能ではないはずだ、と思う。