新エレホン-2

私はまたシゲとカフェで会って話をした。お茶を啜りながら、私達は低い声で話し続けた。

シゲ「君にとっては、苦痛なことかもしれないが、避けて通るわけにはいかないことがある。君はQ-NAM紛争にコミットしたね?」
私「確かに、コミットした。」
シゲ「君は、その経験について、長大な文章──『Q-NAM問題』──も公開しているよね。君自身の理解では、Q-NAM紛争の本質とは何だったのかい?」
私「LETSの本質である『信頼』を破壊することによって、Qそのものを機能不全に陥らせようとした象徴的な自爆攻撃だった、と思っているよ。」
シゲ「不正高額取引やWinds_qのバグを突いた嫌がらせ、さらには近畿大の教員や学生達による『告訴』恫喝まで、いろいろなかたちで、それは続いたよね。最初、柄谷行人に煽動された子飼いの者らが嫌がらせを続けていた時、君はどう感じていた?」
私「先ず、嫌がらせの先頭に立っていた連中が、それまでNAMに何ら貢献もしてこなかった奴らで、こんな時にだけ調子良くしゃしゃり出て来ることに不快感を覚えたよ。私は、NAMを大切に考えてきたので、私にとってのNAMを汚されたとも感じたね。」
シゲ「君は、Q-NAM紛争の最初の段階において、暴力的な展開を厭う人間だった。このことは、回顧的な自己欺瞞を交えずに、本当のことだと言える?」
私「勿論、本当のことだと、そう証言するよ。私は、事態の暴力的な展開に、本当に傷付いていた。家族の話だと、私は、体重が減り、髪の毛も抜けて、死ぬ寸前だったとのことだ。勿論、こうした言葉を弄することも、結局は自己欺瞞と自己正当化でしかないのかもしれないが。」
シゲ「2003年のことを話したいのだけれど、君は一体何をやったのか? 欺瞞を交えずに、それを率直に語って欲しい。」
私「私は、Winds_qに不正アクセスし、Q会員全員のメールアドレスを詐取し、かれら全員にQは『詐欺』なので退会するように、と煽動を続けた。『一斉同報メール』と私が呼んだ手法だね。」
シゲ「君は公然と不正行為を犯したわけだよね。その動機は何だったのだろう?」
私「或る人から、lets_think MLというものの断片を送られたことだ。恥ずかしながら、私はそれを読んで我を忘れ、激昂してしまったんだ。穂積さんに電話を掛けて怒鳴り散らし、そして不正行為に手を染めた。私は、『裏切り者!』と叫んで、穂積さんを罵った…。」
シゲ「君は、lets_think MLの一部を読んで、西部さん・宮地さん・穂積さんがNAMを裏切った、NAMから離反した、と思い込んだわけだね。今では、lets_think MLの全文が公開されているわけだけど、今現在の時点での認識はどうなの?」
私「『裏切り』というのは私の誤解だったと認めるよ。言葉だけで言えば、宮地さんや穂積さんの言葉で今なお許せないものはある。しかし、かれらがNAMを裏切った、というのは、私の側の誤解だった、というか、かれら自身、NAMで起きていた権力闘争の渦に巻き込まれた被害者だったんだと思うよ。」
シゲ「それで、2002年の9月に戻りたいんだけれど、君は当時、Q-hiveの委員だったよね。そして、Q-hiveのMLで激しく西部さんを糾弾している。率直に言うけど、その糾弾の背景にあったのは、柄谷行人の権威を背にしている、という自我肥大だったろう?」
私「それはそうと認めるしかないね。」
シゲ「君は、自分がNAMという党派性を代表できると思い上がって西部さんらを糾弾し続けた。それも、自分自身の言葉と思考の力に頼るのではなく、柄谷行人の権威に頼って。」
私「確かにそうだと認めるほかない。」
シゲ「そんな君だが、柄谷さんの息子から、告訴すると脅された途端、急に弱気になり、怖くなって、Q-hiveの委員を辞めた。これは言い訳の余地がなく、卑怯な行為だよね。」
私「そうだと認めるよ。」
シゲ「そういう経緯があったのに、何故君はQ-hiveの執行部の人達の『裏切り』を倫理的に咎める資格がある、と思ったのだろう? 君自身が、言葉の悪い意味で『政治的』或いは『党派的』に動いていた、というのに、他者をその咎で責めるなんてことがどうして可能だと思ったんだろう?」
私「確かに私には、西部さんや宮地さんについて、どうこう言う資格はなかったと、今では認めるよ。」
シゲ「2003年の事件に戻るけれども、君がやったことの本質は何か、もう一度語ってもらえないか?」
私「Qの本質を諸個人の『信頼』に見て、その『信頼』を破壊することで、Qそれ自体を壊そうとした。」
シゲ「つまり、柄谷行人及びかれに煽動されたNAM会員がやったのと同じことを、さらに大規模に反復したということだね?」
私「そうだと認めるしかないね。」
シゲ「では君は、極めて特異で悪質なフリーライダーだということになるね? 『信頼』というQの倫理の根本を覆そうとしたわけだから。」
私「そう言えるかもしれない、と思うよ。」
シゲ「だとすれば、君がQに復帰できないのも、当然ではないだろうか? 君は制度の根幹を攻撃した。Q自体に大きな打撃が与えられ、実質的な被害もあった。君はそれをどうやって償うつもりなのか?」
私「私としては、できるだけ自己欺瞞や自己正当化を含まない仕方で自分達のやった行為を認識し、それを言葉にして公開していくこと、なお且つ、市民メディアでLETSの可能性を広く訴えることで、Qが蒙った損害や不利益を少しでも償っていくということしかできないよ。」
シゲ「君は『重力03』からの『寄稿要求』に応答するかたちで、それも鎌田さんや西部さんから助けてもらいながら事実認識を深め、分析を進めていった。自力での総括では、あの程度の深さにも達しなかったろう?」
私「思い出すのが苦痛な出来事が、この件についてはあり過ぎるんだ…。想起しようとすると、苦しい気持ちになり、堪らなくなる。けれども、想起・反復・徹底操作を経なければ、私自身の自己分析は終えられないんだ。自己分析を終えることなしには、本当の意味で、Q-NAM問題を『通過』することはできない。自己欺瞞や自己正当化に囚われたままでは、本当の意味で自由であるとは言えない。私が『重力03』のために『Q-NAM問題』を書いたのは、Qコミュニティへの贖罪のためでもあり、且つ、私自身の自己解放のためでもあった。この件を誤魔化したままでは、生きていられないと強く感じていたんだ。私は欺瞞を破り、真実を語らなければならない、と思った。それが、『Q-NAM問題』を書いた理由だよ。念のために言えば、私はそれを自分のために書いたわけじゃない。Qという他者への応答義務を果たすために書いたんだ。私はその他者を深く傷付けた。他者を傷付けた報いに、自分自身もまた傷付いた。私は立ち直るために、他者に応答し、自己分析を深める必要があったんだ。」
シゲ「君は象徴的な自爆攻撃を遂行し、その結果、君は象徴的な意味で死んだ。君は死者になったんだ。ところが君は、再び生きようとした。死者の国から生者の国に還って来る時に、試練をくぐらなければならなかったわけだね。それが君が『分析』という言葉で呼ぶものだ。」
私「全くその通りだね。」
シゲ「君は何度も何度も、『転向』と呼ぶのに値する態度変更を繰り返してきた。それはどうしてだろう?」
私「自前の『思考』というのを持っていなかったからだろうと、今では思っているよ。理論的考察を柄谷行人なり西部忠なりに委ねてしまい、自分自身で思索を深めることはなかった。だから、些細な契機で、ころころ立場を変えるといったことにもなったんだ。」
シゲ「今はどうなんだい?」
私「私は学者ではないよ。理論的と言えるほどの認識も持ち合わせていないことを自分自身でよく承知している。だから、ソクラテスの言うような意味での『無知の知』を第一原理とし、次いで、いろいろな言説を読み・学んでいく無限の過程に身を投じようと思っているんだ。」
シゲ「つまり君は、自分自身の力で探求することにしたわけだね。」
私「そうだ。私は、貧弱なものであれ、自分自身が理解し納得できるものを支持したい。借り物ではなく、自前の思考と言葉が欲しいんだ。」
シゲ「君は、経済学の素人であることを認めているわけだけれども、素人なりに自分の頭で考えていきたい、ということだね。」
私「その通りだね。」
シゲ「では、少し抽象的な話に入りたいのだけれど…。貨幣の貨幣性というか、貨幣を貨幣たらしめているもの、貨幣を流通させているその『根拠』は何だろうか?」
私「私の理解では、貨幣は商品、但し特殊な商品──一般的等価物という──で、記号としても捉えることができる、と思っているよ。例えば、私が紙片に『1,000円』と殴り書きしてそれで支払おうとしても、相手は受け取ってくれないだろう。しかし、1,000円札を差し出せば、受け取ってもらえるわけだ。つまり、貨幣の貨幣性は単に主観的なものではなく、相手の承認があって初めて成立するものだと思うんだ。それは根本的に象徴的なもの、根源的な『約束』だと思う。貨幣の世界は、一種宗教的な『信』の世界だけれども、単に主観的な世界なのではない。多数の他者が承認して初めて成立する世界だ。それを間主観的とかいうふうに言っていいのかどうかは、分からないけれどもね。或る記号を、『貨幣』として認知するということは、フェティシズムの働きによる。それを『貨幣』として認知しないならば、あるのは、単なる紙切れとか金属片に過ぎない。貨幣が貨幣であるのは、それが何らかの意味(価値)を表現し、且つそれが他者から承認されるかぎりにおいてだ。」
シゲ「君のその理解で言うと、地域通貨というものの位置はどうなるのだろう?」
私「『1,000円』という殴り書きと、日銀の発行する1,000円札の中間くらいの位置、といったら学問的に言って曖昧過ぎるかな? 私が理解しているかぎりでは、西部さんの理論では、『信頼』が地域通貨の価値を担保している。『信頼』というのは、複数の人間がいて初めて成り立つ象徴的な関係の創設だよね。根本的な契約だと言い換えてもいい。複数の人間による『約束』、恣意的ではなく未来において必ず義務を果たすということを相互に保証し合う関係性における合意が、地域通貨の根拠なのだと思うよ。私的言語は存在しない、というウィトゲンシュタインの言葉があるけれど、『1,000円』という殴り書きはその私的言語のようなものだと思う。それは『貨幣』として認知されない、つまり象徴的に成り立たない、ということなんだ。」
シゲ「『信頼』によって結ばれた共同体、コミュニティについての君の考えを聞かせてもらえないか?」
私「私が『コミュニティ』と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、大学生の頃、OCCUR(動くゲイとレズビアンの会)に在籍していた頃、理論部会で『コミュニティ』の意味について討論したという経験だ。そこで話題になっていたのは、『ゲイ・コミュニティ』だけれど、例えば新宿二丁目は、それ自体としてはコミュニティではないんだよね。何故なら、ただの歓楽街で、政治的・社会的な絆がないから。政治的・社会的な連帯があって初めて、その集団は『コミュニティ』になるんだ。また、多様で異質な複数の人間が共存する場としても捉えなければいけない。『ゲイ・コミュニティ』といっても、ゲイやレズビアンなど同性愛者達だけがいるわけではない。トランスジェンダーインターセックスなど、多数多様な他者が共存しているのが、コミュニティなんだ。私が『コミュニティ』という言葉から連想するのは、そんな事態だね。LETSのコミュニティも同じだと思うよ。単なる経済活動の場、ただの市場であれば、それはコミュニティではないんだ。政治的・社会的な相互承認の過程を経て初めて、それはコミュニティになる。そして、LETSにおいては、そのコミュニティが貨幣の貨幣性を支える…。」
シゲ「つまり、NAMでは柄谷さんの影響もあって、カントの実践道徳が強調されていたけれども、LETSの倫理を具体的に構想する時にはカント流の個人倫理では駄目で、社会的な次元が入らないといけないということだね?」
私「自分の理解ではそう。柄谷さんの理論では、『共同体』と『社会』の位相を峻別するけれど、実際の実践の現場では、両者の区別は付け難いとも思っている。だから柄谷さんも、理論的にはデリダでいくけれども実践的にはハーバーマスでもいい、という意味のことを言っていたんだと思うよ。それは即ち、かれの語っていた共同体/社会の区別が、実践的には難しいというか、意味をなさないということだと思うんだ。」
シゲ「君が言う『コミュニティ』というのは、閉鎖的・排他的なもの──例えば家父長制家族や伝統的農村共同体など──ではないんだよね?」
私「そうだ。言葉による契約を通して初めて生起するような、象徴的な絆のことを指して『コミュニティ』と言っている。」
シゲ「君は、象徴的な自爆攻撃によって、自分で自分をその『コミュニティ』から排除、疎外してしまった。そういうふうには思わないかい?」
私「確かに君の言う通りだと感じるよ。」
シゲ「だとすれば、君が疎外態から本来性に回復するには、長い時間を掛けて、再び『信頼』を醸成するしかない、ということになるね。根気の要る実践が必要だ、ということに。」
私「君の言うことに異論はないよ。」
シゲ「じゃあ、今日も大分話したから、少し一休みして、話を続けることにしよう。それでいいかい?」
私「了解。異論はないよ。」