答えは否

あかねでのワークショップからの帰り、電車内で苦しんで自問自答した。「いつまでも苦しみ続けなければならないのか? 答えは否。」

ほぼ毎日、死にたくなる苦痛に襲われるようになったのがいつ頃からか、もう分からない。ただ端的に、ものすごく苦しいのであり、死を解放として待ち望んでいる、ということは確かだ。では何故今すぐに自殺しないのか、と問われれば、親が生きているから、と答えるほかない。

私の生はそれ自身としてみれば、生きるに値しない。すっかり荒廃して、もはや生きる意味も価値もない。希望を失って久しい。これから全てが、ただ悪くなるばかりのように思えてならない。医者も何の頼りにもならない。

最近のネオリベ批判の哲学・社会学の類から、「生政治」という言葉を知った。アガンベンの一連の著作を未読なので、その正確な意味は分からないが、まさに私個人の生/死こそが問題的なのだと感じている。私は自分の生き残りと死とを政治化したいと思っている。「負け犬の最後の闘争」にしたいと思っている。しかし、そんなことももう何年も言っている。終わりはあっけなく来るのかもしれない。その日をただ、待ち続けることしかできないのかもしれない。矢尽き刀折れ、無様な姿を晒すことになるのかもしれない。というか、今が既にそうなのではないか。醜態を晒しつつ、恥の意識の裡に生きている。ニヒリズムが昂進しつつも、その最後の段階には到達していない、そんな姿を晒しているのだろう。

肉体的苦痛なく、社会的軋轢なく、楽に死ねる方法があれば。反動的だと自嘲しつつ、私はそう願わざるを得ない。これほど不毛な、これほど苦痛な日々を送らざるを得ないのであれば、それが今後何年も何十年も続くのであれば、それを「担い」耐え続けなければならないと私に命令する権利は誰にもないと思う。