「メンヘラー」は言葉の誤用か?

Yさんのおっしゃることも分かりますが、私は自分で選択・自己決定した用語を用いたいと思っています。

「メンヘラー」という言葉を使うのには理由がないわけではありません。「精神病」者としての確立されたアイデンティティも持たない曖昧な存在、マスコミの影響もあって爆発的に増大した「こころ系」の人達(=死屍累々)の存在様態を指すのにそれは適切な用語だと思います。

統合失調症を典型とする、従来型の「精神病」者とは違う在り様としての、何とも中途半端な・しかし確実に自他に苦痛をもたらす存在様態があると思います。

以下、私の「精神医療を良くする市民ネットワーク」ML宛ての投稿の抜粋です。

ただ、私が「メンヘラー」というのは、これは2ちゃんねる用語だから使わないほうが良いと勧めてくれる友人もいるのですが、真に重篤な精神障がい者というよりは、障害年金も取れないような、従って自分らでやるよりほかないような、比較的軽度の、しかし実際に生活には支障をきたしている人達のことを想定しています。「神経症」に分類されるのか「人格障害」に分類されるのか分かりませんが、現在福祉の対象にならないような、しかし確実に生きづらさを抱えているような人達(それは確実に厖大に存在している)の当事者主権に基く自助・自立運動です。私自身がそうだからですが(医師からは「不安障害」と診断されています。障害年金の診断書は書けない、とはっきり言われました)、「精神病」者運動の中にも入りづらい「曖昧な存在」である者らも、どうにかして生きていかねばなりませんから、そのための交流や交換、仲間作り、事業や運動が必要だと感じてきました。

現存のものでは、「こころ系」と自称・他称する者らが多く集まる早稲田の「あかね」がそのイメージに近いのかもしれませんが、そのようなフリースペースを、私自身の家で、開きたいのです。そして、徐々にでいいから、小さな事業(運動)にしていきたい、という夢を持っています。夢は夢でしかありませんが、霞を喰って生きていくわけにもいきませんが、夢を持つことは大事なことだと感じています。

七瀬さんのおっしゃるとおり、日本の地域通貨はどれもまだ力ないものです。以前、精神障がい当事者の方が、精神障がい当事者のための地域通貨「mets」を構想されたと聞いたことがありますが、その試みは頓挫したとのことです。私も、レインボーリングやWATなど国内主要地域通貨に参加するほか、自ら地域通貨を立ち上げてもいますが、成功というには程遠い現状にあります。ここは精神障がいについて語るMLですから、この問題についてこれ以上私の意見をごり押ししようとは思いません。ただ、私は、将来的に、精神障がいに限らず「当事者主権の」地域通貨が出てきて力を持つようになることを祈念するものです。とはいえ、これは夢想に終わるかもしれません。私の夢は、無力に見える存在でも潜在的に持っているはずの、「限界」の技術を交換する道具を作り出すことですが、それが地域通貨かもしれないし、別のものかもしれません。

私の問題提起は、国の福祉を受けられない、比較的軽度(といっても生活に支障をきたしてはいる)精神障がい者(「メンヘラー」「こころ系」とも言う)の、当事者主権に基づく相互扶助・自立運動が必要なのではないかということです。私は、年金受給など国の福祉を大いに利用することに反対ではありません。それが可能な方は、国から援助を受けるのは当然の権利だと考えます。ただ、ネオリベラリズム的な現状の資本主義において、福祉は切り縮められ、多くの人達が切り捨てられます。そんな現状に少しでも「抵抗」したい、というのが私の投稿の主旨でした。

私は、正社員であれ派遣社員であれ、就職活動を続けています。しかし、先ず採用される自信がないし、仮に採用されたとしても日々の激務を継続できる自信もありません。そんな自分には、「スローワーク」を発明することしか、生き延びる道はないように思えたのです。幸い、実家にスペースはあるし、これを私が「JUNK」(すが秀実)と一括した「フリーター・ニート・メンヘラー」の集える場、溜まり場、さらにはそこから何らかのアクションや事業を起こしていける場にしていけないかと希望を抱いています。かしこさんへの返信でも書いたように、近くに精神障がい者の作業所(カフェ・アーモ)があり、そこの経営者夫妻とは懇意にしています。少しずつでも、弱さや生きづらさを抱えた者らが、集い繋がれる場を創出していきたいのです。そう「願う」だけでは、現実は思うように動いてくれないかもしれませんが、少しでも現状を変えたいと願っています。

かしこさんの提案されたNPOですが、NPO法人は多数ありますが、国からの縛りが大変きついものと聞いております。対案として「中間法人」等があると法律家の知人から聞きかじっておりますが、私がやろうとしているのは、今のところそれほど「大きな」ことではありません。法人格がなくても、とりあえず「小さく」始められれば、と思っております。

私の提案は、例えば全国「精神病」者集団の運動等の活動に対する批判でもなければ、否定でもありません。私自身、幽霊会員とはいえ全国「精神病」者集団の会員でもありますし、山本真理さんをはじめとする方々の活動に深く賛同するものです。とはいえ、従来型のマイノリティ運動或いは当事者運動からは零れ落ちてしまうかもしれない、しかしこの社会の中に確実に存在する或る層(それを指して私は「メンヘラー」と呼びました)の自立運動(社会運動や事業活動等)もまた必要だと信じるものです。「メンヘラー」「こころ系」等につきましては、林医師の「擬態うつ病」概念の提起にもあるように、マスメディアをはじめとする社会や病院や当人自身が「作り出している」側面もあるのではないか、と素人ながら考えております。しかし、かりに「擬態うつ病」が真の「うつ病」ではなく例えば「人格障害」とラベリングされる部類に入るのだとしても、本人の<主観的>な苦しみは真正のものであるはずです。そのような苦しみに、病院は本当は無力だとしても、そのような苦しみを共有する当事者の間の相互扶助やセルフヘルプはできないものだろうか? と私は思いました。このMLには医師など専門家の方々や、実際に当事者運動を継続してこられた方々が参加していますから、私の意見は幼稚で稚拙なものだと受け取られるかもしれませんが、私はそのように信じているのです。

焦燥感から、連日の乱文失礼しますが、私の真意を汲んでいただければ幸いです。

私はビバップが好きだが、自分でビバップを演奏することは出来ない。ビバップ「革命」に興味を寄せているが、それを音楽学的に分析することは出来ない。あの輝きを、遠くから眺めることが出来るのみだ。菊地成孔の本は、私の決して到達し得ない分析に到達しているので、素晴らしいと感じた。

また、初めて『アンチ・オイディプス』や『リゾーム』を読んだ高校生の頃。「未聞の言葉」に接したと思い、熱狂したものだ。良識的な社会的枠組みを超える言説に接したと感じ、それに魅せられていた。

要するに高校生の頃は私は、好奇心旺盛で、音楽も文学も哲学も自分にとって新しいものに次々とチャレンジしていたのだ。それが今では、保守的になり、守りに入ってしまっている。躁病的興奮から抑鬱的沈滞へと移行してしまっている。例えばUAなどを聴いても、解放されるような思いはもうない。本を開いても、喜びに打ち震えることもない。灰色の日常が続く。