<絶望の教室>、ただ喚き続けるのみ

私は私の苦しみをどうにもする事が出来ない。苦しいとただ喚き続ける事しか出来ない。だが、そうすることに何の実りがあるだろう。何の効果があるだろう。それは私の生きている事の存在証明でもあるのかもしれないが、果たしてそんなものが必要なのか。静かに生き、静かに死ぬ人達も多いというのに、私のように人様に迷惑を撒き散らして無様に、<恥晒し>に生き続けるというのは如何なものか。私は、自分が生きているという事が、そして無為であるという事が、恥ずかしい。自己否定や自虐や、その他もろもろのネガティヴな受動感情を脱け出すのは難しい。私はその志向性から、<絶望の教室>とさえ呼ばれた事もある者なのだ。かつても、そして今も<絶望の教室>というのは私の名前に相応しい。私は希望無く語り、希望無く生きている。単に生きている。それが肯定されるべきかどうかも知らぬままに。