あり得ない誇り

私は私の存在に、誇り(プライド)を持つ事が出来るだろうか。私自身の生きているということに、肯定感を持つ事が出来るだろうか。勿論、それが出来ようと出来まいと、端的に私が生きているという事実性には変更の余地はない。私は選択の余地なく生きている。死んではいない。喚く、語る。だがそうしたところで、生の与件を変更することは出来ないままなのだ。私がmixiで幾ら喚こうと、世の中には傷一つ付かない。私が幾ら挑戦し、挑発しようとも、資本主義には傷一つ付かない。何事も無かったかのように、全ては進行する。その事を口惜しく思おうと、現実の法則は冷徹である。法則の貫徹に抗う事に意味はあるのか。意味はあるのかと問う事に意味はあるのか。意味があろうとなかろうと、私はそうする、ただそれだけだ。だが、それも、いつまで続けられるか。個体として、存続の限界というものがあるはずだし、私もいつかは死ぬはずなのだ。死ぬまでは喚き続ける、ただそれだけなのだ。