岡崎さんが、またやった!

http://d.hatena.ne.jp/omusubisusumu/20060206
いや、岡崎乾二郎の生産力は凄いですね。これ、欲しいです! ただ、自らを「解放奴隷」と呼ぶかれの文化的「抵抗」の源泉は、かれの「天才」性(取り換え不能な固有性)にあるのであって、「サボタージュ」というのもそこから出てくる戦略でしょう。「サボタージュ」すら出来ない、われら「貧者」たち(というのもおこがましいか)の選択と戦略をどうするのか、というのは私達自身が考えなければならないことなのだろうな。岡崎一派はやはり文化的エリートの集まりという気がするんですよ。そうじゃない、もっと雑駁な何か、汚れた何かから思考しないといけないのではないのか。だからJUNKと言ってみたんですけれどもね、アーレントの読書をしてみると、JUNKというのも日本「国民」であるかぎり恵まれた立場だと思えてくる。難民、無国籍者、故郷喪失者という形象からみるとき、JUNKもまた「国民」(ネーション)である、と言わざるを得ない。911選挙の時若いフリーター達が狂ったように小泉を支持したのは、アーレントも言うような、自分も「国民」なのだ、ナショナルなものと関わっているのだ、ということを必死に表現しようとした、絶望的な行為だったのかもしれない。それを美的ないし高踏的に軽蔑するのは絶対間違っていると思う。それは貴族主義にしか行き着かない。そうではなく、雑多な民の雑多なわけのわからない力や行為を肯定しつつ、変革を目指していくことが大事ではないか。私の(義)父は人間の九割は「どぶ」だと言っているけれど、そのような「どぶ」の中から始め、「どぶ」を内在的に変革していくような契機が必要なのではないのか。スピノザの『国家論』、随分前に読んだけれど、民主政治の項で、女性や外国人、居酒屋などが滅茶苦茶差別されているのに驚いた記憶がある。これで民主主義かよ、と思ったね。スピノザの民主主義が絶対的民主主義だというネグリらのテーゼも疑わしいと思っている。女性を排除している時点でもう駄目だね。現在の世俗的な民主主義のほうがまだましじゃんということになる。そうではなく、女子どもや外国人やいろいろな職業の者らで構成された何かから民主主義を問うていくことが必要ではないか。話を戻すと、岡崎一派(RAM)のヴィジョンは、結局のところ大衆蔑視になると思うんだ。私は、それが厭だ。オカマの東郷健が選挙に出て訴えていたように、万国の雑民よ、連帯せよ!と言いたい。酒井隆史が万国の「負け犬」よ、連帯せよ、と言っていたそうだが、それに似た気持かな。以下、東郷健『常識を越えて』(ポット出版)より。

 次に、わたしの初めての選挙、第九回参議院選挙(一九七一年六月)の選挙公報にのせた文章を掲げる。

無所属候補者・全国参議院議員・とうごうけん・三十九
●疎外された者達よ
ギリギリに、ドロドロに生きて来た、とうごうけんを支援して欲しい。アンマをしたり、ダンスをしたり、漫談をいったり、歌を唱ったり、お医者さんゴッコをしたり、銭によって当選しようとする億万人に一人の幸福者に庶民の政治をマカシテはならない。名誉、地位、品位なんど働くものに必要ではない。わたしを当選さすことに依って、紳士顔した者達を引きずり落とすことが出来るのではなかろうか。庶民の心は庶民しか判らない。
●考えてもみよう
文明開化のタイコの音につられ、明治百年、二十年毎に戦争をし、我々の囲りの凡てを扇動し殺したのは誰か。
徳川時代から四〇〇年、物価を下げた政治家は一人もいないのは、物価を下げる、下げるをウソをつくのは誰か、ダマサレテハナラナイ。人を廃人に落とし入れ、公害を引き起こしても、資本家は罪にならない。法律は人を幸せになるためにあるのでないか。
●わたしは約束する
純粋に生きた、このわたしを差別し詮議する。それはアナタもされている。今、わたしに残されたのは、質札と泥まみれの体だけだ。体を粉にして、純粋と誠意と真心で、一生、疎外された者の為に、体を捧げる事を、政治に無関心であった者も庶民の代弁者としてこのわたしを支援してくれなければならない。お願いします。
関西学院大学卒飲食店経営著書「隠花植物群」「ホモの道を行く」「全国縦断ゲイ道行脚」等

 これを見て分かるとおり、わたしは世の政治家のいういわゆる具体的な公約を持たずに立候補したのである。それは、しいたげられた者の叫び声であった。デラシネの発言、わたしにはそれしか方法がなかったからである。
 わたしの敬愛する椎名鱗三先生は、その『読書論』の中で、「しかもそれら(ディルタイベルグソンキルケゴールジンメルヤスパースハイデッガー・東郷注)は僕の知らなかった多くのことを教えてくれたが僕のニヒリズムは深まる一方であった。そのような状況において、ドストエフスキーに出会ったのである。とにかく彼は、追いつめられた者でも叫ぶことはできることを教えてくれたのだ」(『椎名鱗三全集』第一四巻、一五〇ページ)と書いておられる。わたしの立候補も、追いつめられた者の叫び声だったのである。恐怖の叫び声、反逆の叫び声、憤懣の、恍惚の、歓喜の、絶望の叫び声、自由、平等、労務者、オカマ、メカケ、日陰者の喝仰の叫び声だったのである。どんな人間にも、たとえオカマであろうが、叫ぶことはできるのだ、といのが今にいたるまで、わたしの思想の根源にある。

ツブシタロツブシタロ
国も家も結婚も
タタカイセンヨニセナアカンノヤ
ツブシタロツブシタレ

オカシタロオカシタレ
黒ん坊も黄色も白も
アイノコフヤサナアカンノヤ
オカシタロオカシタレ

ダマシタロダマシタレ
借金も月賦も
オモチャノカネデカエシタレ
ダマシタロダマシタレ

ヤッタレヤッタレ
くろくろもしろしろも
自然に反するもんツブシタレ
ヤッタッロヤッタレエヤレ

ヤブッタレヤブッタレ
規則や掟を
自然にもどすんや
ヤブッタレヤブッタレ

 右の詩は「ヤブッタレ」という題で、山下毅雄さん作曲になるわたしの歌のひとつであるが、ここにも、選挙に立つにあたってのわたしの思想が認められる。