就労圧力

が強い。親や上司からの就労(正社員で労働)せよという圧力が強く、精神的に参ってしまう。今日も川崎で面接だったが、正直言って気持が限界だ。夜、究極さんの話を聞きに「あかね」に行こうと思ったが、神経が疲弊しており、出来なかった。明日はPAFFの会議だが出席出来るだろうか? 無理かもしれない。

就職活動しても、採用される気が全くしないし、されたとしても、連日の激務に堪える自信がない。ひたすら困っている。

ハンナ・アーレントが書いた難民や無国籍者についての文章を、面接に行く電車内で読んだ。社会的「排除」の形象の一つの極限を描き出している、と思った。私達は、JUNKといっても、日本「国民」であることを辞めたわけではないのだから、最終的には、国の保護(生活保護等)をあてにすることができる。しかし、ネーションに基くとされる「人権」を持たないかれら難民や無国籍者であれば、そんな期待は出来ない。ハンナ・アーレントは初めて読むのだが、そして「帝国主義」についてのその文章はきちんと読まないとと思わせるものだが、ここからどんな対抗運動が構想できるだろうか、と思った。ハンナ・アーレント国民国家帝国主義に抗するものと見ているようだが、しかし、ネーションに基づく「人権」を持たない難民や無国籍者の存在そのものが「国民」国家の破産を露呈している以上、国民国家に依拠して帝国主義やその破壊的な諸帰結に反対することは出来ない。ではどうすればいいか。ネーションに基かない権利や能力を措定し、そこから出発するよりほかないのか。

http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/demo/voice/STT030817_shaheed/index.html

で私が書いた、「岡崎さんがいうように国家のアイデンティティを保持する国宝とよばれるものの逆説は、ひとたび国宝に指定されると、その物がたとえ崩壊(灰燼に帰そうと)しようと永遠に国宝でありつづけ財として償却されることがない(つまり国宝は財_物質の本性と矛盾する)という点にあったとしたら、この、あたかもジャン・ティンゲリーの破壊的ストラクチュアNO.1のようなインスタレーション=パフォーマンスは、過去を物質として(国宝のように)固定することなく、まさに現在進行形で、批判すべき現実をそのまま括弧にいれ対象化する。いかなる破壊が起こされようと、それを批判的に捉える眼と手(それが芸術という活動の意味である)は決して劣化もしないし滅びもしない。ここで確保されるのは そうした不滅の活動が持つアイデンティティである。ひき起こされることが、如何に残虐でそして予測を超えていようと彼・彼女らをおびやかすことはもはやない。何よりも彼・彼女らは(そしてわれわれも)生きているのであり、それらの暴力が、いかに彼・彼女らを特定の点(数)へ還元し消去しようと計ったとしても、その点(痛み)を乗り越え変革していく、生きた認識の力は、決して消去できず持続していくからである。」「パレスチナのような土地において━━国家なき国家においてこそ、死者が語るように、芸術は生きつづける。しかし何処へ? (非-)国家のアイデンティティアイデンティティならぬアイデンティティ? 国家の彼岸にあるかもしれない、どこにも帰属しない私たちへの開け?」という言葉は、まさに恒常的な「難民」状況にあるパレスチナについて書いたものだ。逆説的な対象である(非-)国宝によって担保される「(非-)国家のアイデンティティアイデンティティならぬアイデンティティ」を思考し実践(現実化)していく必要があるのかもしれない。

とはいえ、ひびのまことさんが言うように、日本「国民」であるというだけで私達は既に多くの特権を手にしている存在なのだ、という点も、忘れるわけにはいかない。国家やネーションを批判するというのは容易なことではない。

Qの困難も、一つはそこにあったのではないか。Qの前提への岡崎乾二郎の反対は、国家の身元保証書類を提出出来ない人達がしなければならなかった苦労を知っているが故に、国家の本人確認書類の提出の義務づけだけは止めて欲しいというものだった。「推薦」制度があるとはいえ、現在のQもやはり、基本的には本人確認書類の提出を求めている。私がQに反対し、metaで実践しようとしたことは、基本的には「贈与」の交換の伝播だった。それを「先贈り」と言ったりいろいろ言い換えたりしたが、基本は他者への無条件の贈与という出来事へと開かれてあるということだった。metaはうまくいかないが、「贈与」の交換の現出に賭ける私の期待は大きい。今でもひたすらそれを待ち望んでいる、と言ってもいいほどだ。とはいえそれは、不意打ち的な仕方で顕われてくるよりほかないものだろうし、大江健三郎の小説によく出てくるような奇矯な自己犠牲的行為を伴うものになるかもしれない。