自己再生産活動━━テロ誰?MLへの投稿

なおやさん 皆様

(1)「いまの私たちを構成し、諸々の経験を自明なものとして定着させている力とはいかなるものだろうか?」(『自由論』10p.、以下同様)という問いたいする答えを用意するにあたって、まず現代思想(主にイタリアの)から入ってくってどうなのよ? ここがぼくにとって一番心理的な抵抗を感ずる所。フランスなりイタリアなりで進行中の問題を分析するのにドゥルーズネグリの主張を検討するのはわりと普通の手続きでしょう。しかし、酒井さんが“はじめに”で現代の重要な課題としてあげている諸問題はいずれも日本を舞台にしたものであり、これらを分析するのに海外の思想家達のテクストを参考にすることから始める、というのはどうにも解せないものがある。

フランス現代思想を学んだものの一人として言えば、フランス現代思想から学ぶべきものはまだ多くあるし、まともな紹介・輸入がなされてさえいません。今後まともな理解がなされるためには、数十年、いやそれ以上が掛かるのでは、と思っています。とはいえ、フランス現代思想を理解しなければ運動ができないなどということは全くありません。

イラク反戦の頃、フランス現代思想の(無意味に?)難解な言葉使いに嫌気が指して、明快なダグラス・ラミスの本をよく読んで共感していたことがありました。フランス現代思想の難解な言語は必要ないのではないか? 明瞭簡潔に言うべきことは言い尽くされているのではないか? (少なくとも反戦の論理に関しては)と思いました。

酒井さんの主張は、ネグリドゥルーズに触発されたものであるとしても、主張自身はかれ自身のものである(はず)のではないでしょうか? ただその酒井さん自身の思想の表現なるものが、ドゥルーズ=ガタリ並みの難解さであったことが問題であったわけで、あそこまで難解でなくても、もっと人に分かる表現が出来たのでは、とは思います。

理論に関しては、海外のものであれ自国のものであれ、”道具箱”(フーコー)として使えるものは使っていく、というスタンスでいいのではないかと思います。

(2)本書21p.では、〈運動〉への参加により生はより豊かなものになる、という観点から、〈運動〉はそれ自体が目的たり得るものなのだ、という主張が展開されています。で、社会運動を“手段”と位置づける従来の運動観――なにかイシューがないと闘えない、敵がいないと闘えないというような――にはどちらかといえば否定的な評価がなされています。ここはやっぱ同意しがたい。ぼくにとって――以前の投稿でも書いたように――社会運動への参加は“義務”ですから。べつにそれ自体が楽しいからやってるわけじゃあない。楽しいにこしたことはないが、楽しくなくてもやんなきゃなんない。自分の生をより豊かなものにしてくれること――つまり、人生は生きるに値するものだと感じさせてくれること――は運動以外の場にあります、ぼくにとって。

享楽というのは重要な主題だと思います。しかし、他方で倫理があるわけです。社会運動への参加にあたって、享楽と倫理が無理なく両立するのがベストだと私は思います。「敵」がいる、というのは明瞭な事実であって、そこから眼を背けるのはおかしいと私は思います。

享楽と倫理という主題を巡っては、私が書いた『Q-NAM問題』という厖大な文章の主題を為してもいますし、最近本MLに投稿した文章のテーマでもあります。端的にいって、「祭り」を「享楽」するだけでは駄目で、倫理ないし客観的な成果が要る、と思います。他方、倫理や他者への奉仕ばかりがあって、享楽がないのであれば、そのような運動は続かないと思います。

QTさんが「反資本主義」を理念(義務)とする、という意味のことを言われたと記憶していますが、そのことに異論はありません。ただ、その時の「反資本主義」の意味は何か? 主観的に資本主義を<嫌悪>するというところに留まるのか、資本の運動への対抗なり揚棄なりを認識した上での話なのか、という疑問が残ります。

その上で言えば、私なりの理想は、「反資本主義」という理念を明確にした上でのフリーター・ニート(私はそれにメンヘラーも含めたい)≒「JUNK」な「死屍累々」の「自立運動」です。このままでは、資本と国家から「放置」され結果的に殺されていくだけの存在たちの、「生」を肯定する運動です。ニュースタートがそうなのかもしれませんが、もっとマイナーなかたちで、自らの生死を問いたいと思っています。それはむしろ「あかね」的なものかもしれません。

私の友人は、「商品や貨幣が立ちあらわれない領域が確かに存在する」と述べた上で、「本質的に貨幣価値とは無縁なそのような領域において果たして快楽とでも呼べるような自己再生産活動が存在しうるのか? より正確にいえば、貨幣−商品の連鎖に組み込まれるとは限らない生存様式が広く快楽をもって受け入れられることがありうるのか?」と問うています。『自由論』の問いとも無縁ではない問いだと思います。仮に私の友人の言が正しいとすれば、そのような「自己再生産活動」は、「快楽」であるとともに「反資本主義」の理念を持ってもいるはずです。そのような活動を始めることができればいいな、と思っています。