曖昧な責任を巡って

著者はフリーター・ニート「問題」を社会のせいにもせず「自己責任」ともせずぎりぎりの線で模索している。それは評価したい。私の知らない内容も多々含まれており、近年の議論動向を把握するのに役立った。とはいえ、不要な「文学的」(真に文学的であるわけではない)修辞が見られ、それが気になった。「フリーターに関する20のテーゼ」が簡潔で最も良いと思うが、これはWEBで読める。http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050911/1126414589

読書会のテーマは

自由論―現在性の系譜学

自由論―現在性の系譜学

希望のニート 現場からのメッセージ

希望のニート 現場からのメッセージ

。QTさんの的確且つ精確なレジュメ(資本主義の「70年代危機」について私は初めて知った)、長時間に及ぶ議論、「べてるの家」のヴィデオ上映など盛りだくさん。

私が『自由論』に対して抱いた疑義は解消されなかったが、久々に硬質の思索に触れた感じがして、満足した。次回読書会は、レーニン帝国主義論』と岩波から出ているという「グローバリゼーション」に決まる。

酒井隆史『自由論−現在性の系譜学』(青土社)&二神能基『希望のニート』(東洋経済新報社)読書感想文
攝津正

私の基本的視点━━「屑正伝」━━は、 http://www.fastwave.gr.jp/diarysrv/realitas/200601c.html#20060125 で示してあるので、それをご参照いただきたい。

● 「反転された革命(revolution in reverse)」p22

現在の「反動」は、逆説的にも、「イノヴェーション」、「変革」、「新たな主体性や集団性の積極的構築」などというような「運動」の相で捉えかえす必要がある。現代は、敵が運動の担い手であるという意味でも〈運動〉以降なのだ。

→では、逆説的に不動性・無能力等々の多様な「サボタージュ」(岡崎乾二郎)が抵抗の契機になるということ? しかし、それだけでは積極的で構成的な展望は開けない。

→フリーター・ニートといった集団的主観性(私はこれに厖大な「メンヘラー」の「死屍累々」(ふみあしいさみ)を加えて考察したい)が重要になってくるところか。しかし、これらは、今のままでは、資本と国家にいいように利用され、解体されるだけだ。(雇用情勢の変化、障害者自立支援法の成立…)

星川淳等が述べている、普遍的価値をコンサーヴするという意味での真正の「保守主義者」と左翼ないしエコロジストの連帯を通じた、小泉流の「改革ファシズム」(ブロガー連盟)への抵抗という戦略は可能? 現実的効果は期待できる?

→「農」というエレメントにおいて、真正の「保守主義者」と革命的勢力(左翼やエコロジスト)の連帯が可能にならないか?

→『希望のニート』でニートの若者が体現しているとされる「スロー」さ、スローライフ・スローワーク等の標語で表される運動は積極的な対抗運動たり得るか? それは単に資本主義的企業に敗北し、〈排除〉されるだけではないのか?

● 労働の拒否と一般的知性p25-

のちにテーラー主義の原理である「構想と実行の分離」へといたることになる相対的剰余価値追求のための生産過程の機械装置による合理化の過程は、労働を生産過程の中心の座から追放し周縁化する。つまり、機械あるいは固定資本と一体化した抽象的知が、労働を周縁化しつつ(「労働者は生産過程の主作用因であることをやめ生産過程と並んで現れる」)」主要な生産力となる。この過程においては労働は「生産過程のなかに内包されたものとして現れるというよりは、むしろ人間が生産過程それ自体にたいして監視者ならびに規制者として関わるようになる」。そのため、労働は価値源泉としては副次的なものとなり、それゆえ資本主義自身によって価値法則が否定されるのである(「直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間は富の尺度であることを……やめる」)。富の生産という観点からするなら、労働はもはやネグリジブルなエレメントである。それにかわって主要な生産力になるのは、生産(機械やのちには組織━━いわゆる「プロセス・イノベーション」)に応用された科学的知、固定資本に客体化された「一般的知性(intelleto generale/general intellect)」である。生産過程の主要な役割を担うのは、いまや機械という具体に入り込んだ知という現象なのである。この「一般的知性」という比喩は抽象的な知がモノのうちに「染み込む」という事態をいいあらわしているという意味でも、奇妙なテーゼである(それゆえヘーゲル的として嫌われもしたのだが)。

→ゴルツやガタリユートピア、少ない労働で過剰な享楽を得られる可能性、が示唆されている? (「サボタージュ、集団移住、組織的ストライキ、個人的なアブセンティズムなど。また過剰な賃上げ要求ですらこれにあてはまるだろう。」)しかし現実は、低賃金の厖大な非正規雇用━━パートタイマー・フリーター━━が生み出され、正規雇用が破壊されただけである。この状況をどう逆手に取ってひっくり返せるのか? Paffは「すべての非正規雇用に一人前の賃金を!」というスローガンを掲げているが、スローガンとしては正当だとしても、それを如何にして実現していくかという戦略・戦術の話になると難しくなる。

● 「分離」のポリティクス

テーラー主義が生産過程と労働過程のあいだにひとまず区別をつけ、前者のもとに後者を従属させるというかたちで労働者階級からの撤退の試みの第一歩を踏みだしたとしたら、資本はさらに歩みを進めて、生産の場からそもそも労働を〈排除(exclusion)〉してしまうというかたちで資本のリストラクチュアリングを進めていった。ある意味で、「労働からの解放」は「豊かさ」の実現という展望からふりほどかれて実現をみたのである。

ユートピアからディストピアへ。第一世界内部の第三世界化。

私たちは常態としてパート労働者なのであり潜在的にはつねに「失業者」なのである。

p41

→p39-41の議論は状況分析としてよく分かるが、他方、何のスキルも獲得できないまま資本に使われるばかりの厖大なフリーター層がいる、という現実はどうなるのか。言われていることはよく分かるが、それへの対抗、そこからの出口が見えない。

価値法則からの脱出は、私たちの社会総体(使用価値)を交換価値へと変貌させてしまうという事態にいたってしまったのだ。工場は社会に分散し、社会−工場となる。ここでマルクスのいう「資本による労働過程の実質的包摂」のみならず「資本による社会の実質的包摂」「社会の国家への実質的包摂」が完成するのである。

p45

ディストピア。ではどうすればいい? 柳原敏夫が引用するイリイチの三つの次元の区別を想起。だが、「生」という次元を回復し再建するのは、具体的には如何にして可能か、というと、それはきわめて難しい。

● 逃走=闘争、「自己価値化」p45-

これ(=「自己価値化」)は〈運動〉のなかで、「資本主義的生産関係や国家の管理とは相対的に自律的な社会組織や福祉の地域、コミュニティに基盤を置いた形式の実践を指して用いられたものである。」

p47

→現在、これにも資本が「吸血鬼」のようにとり憑いて価値を吸い尽くそうとするのなら、それに如何に反撃していけばいいのか?

● multitudesのエクソダス

疑問符。具体的戦略が見えない。空疎な美辞麗句という印象。

ヴィルノアレントを参照にしつつそのエクソダスの戦略を明確に組み立てるよう試みている。ひとまずアレントにならいながら、二人間の活動領域を〈労働(Traveil)〉(ヴィルノはWorkとLaborを区別していない)〈活動〉〈知性〉の三つに区分される。アレントは知性を秘私的な活動とみなし、公共領域にかかわる〈活動〉や〈労働〉とは切り離したのであるが、マルクスの一般的知性論が示していたように〈知性〉と〈労働〉は密接にむすびつき、また〈知性〉は協働にとっての共有された公共の資源になる。その点を前提にヴィルノは、〈活動〉の位相を捉えかえす。先述したように、非物質的労働においては〈労働〉は生産物という最終生産物をみることのない技芸、action-de-concert、〈活動〉の性質を帯びる。それにしても、こうした技芸的性格は政治的活動の特色ではないだろうか? そこで、〈知性〉を〈労働〉から引き離し、そのはらむ〈活動〉的特質を政治の方に向けかえさなければならない。エクソダスとは、〈知性〉が〈労働〉から引き離され、〈活動〉の方に向かうべく鍛えられるプロセスなのである。

p57

ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー』の「労働」/「自由活動」の二項対立を想起させるが、具体的展望が見えてこない。端的にいえばそのような「自由活動」で喰っていくことはいかにしたら可能・現実になるのか? それとも喰っていくというような生活から分離した局面で「自由活動」を捉えるのか?

これまでこうしたプロセスを開く集団性のありかたは、ホッブスがmultitudeをpeupleのただなかに引き込んでしまう「非正規の団体」として嫌悪してきたものである。「非正規な団体は、本質的には、同盟にすぎないし、あるいはときには、人びとのたんなる集まりにすぎず、なにか特定の企図のために結合しているものではなく、一方の他方への義務づけがなく、ただ、意志と性向を同じくすることからのみ生じたものである」(Hobbes 1651=1966 訳一五七頁)。ヴィルノはこうしたホッブスの議論を参照しながら、まさにこのような団体こそ、multitudesの共和制を構成するものである、という。ホッブスのいう団体、あるいはソヴィエト、評議会━━伝統的な非代表制民主制の機関。〈エクソダス〉は、そうした機関を構築することで、「徳のある協働」を賃労働から解放するのである。それは代表制民主主義のエリート主義的な擁護者が戯画化し退けるような、単純な政治形態ではない。国家の行政装置の外で、それに抗したり、ときにむすびついたりしながら、「積極的引きさがり(soustraction entreprenante)」の過程で形成された相互保障の関係性や「友情による作品」を守っていく(sauvegarde)というプロセスであり、あらかじめの形態や組織をもたない複雑な構成をもたねばならないというのである(Virno ibid.p142)。

p57-58

→「multitudesの共和制」はどのようにして「構成」されるのか? 

→「評議会」とはいかなる機関で、具体的にどのように運営されるのか? なぜそれが「「徳のある協働」を賃労働から解放する」のか?

→「「積極的引きさがり(soustraction entreprenante)」の過程で形成された相互保障の関係性や「友情による作品」を守っていく(sauvegarde)というプロセスであり、あらかじめの形態や組織をもたない複雑な構成をもたねばならない」というが、そのようなプロセスは具体的にはどのようなものであり、それがもたねばならないという「複雑な構成」とはどのようなものなのか?

『自由論』、フーコー解釈に関わる超難解な部分以外は読めました。久々に読み応えのある本を読んだ(完全読破していないが)と感じました。

「セキュリティ」や監視社会の章、主旨は分かるのですが、われわれがそれに対して如何に「抵抗」していけるのかは、私には分からないままでした。

酒井隆史は「自由は「統治化」に抗する私たちの可能性にある。」と述べ、「具体的な(闘いの轟きを内包させている)「統治される者の権利」をテコにした新しい闘争の見通し」を語っています。

「「統治化」に抗する私たちの可能性」、「「統治される者の権利」をテコにした新しい闘争」とは具体的にどのような諸形態を採り、どのような諸戦略を持ち、どのように遂行されるものなのでしょうか。私はそれを知りたいと思いました。

また、纏めのような箇所で、次のように語っています。

(1)フレキシビリティの昂進:自己から自己への働きかけに力点を移動させることで自由の持分を拡大しながら、支配の状態を転覆させる、というフーコーのヴィジョンは、現在、権力の戦略にコード化されつつあるようだ。支配の状態を緩和させつつ自由の持分を拡大しながらポジションの逆転可能性。いわばポストフォーディズム的な「人間の蓄積」(『監獄の誕生』は産業資本主義の資本蓄積に対応した「人間の蓄積」の探求だった)は、支配を緩和しながら、さらに上位の水準で支配する。固定した、少なくとも長い持続を有したアイデンティティは要請されず、むしろ身体は幅広い可動性や匿名性のなかに置かれるのである。「状態」であることをますます自ら拒絶する「支配」。

(2)排除の問題:世界市場による「間接的で委託された絶滅」の実践。使い道のない過剰人口の排除。本章の冒頭で触れた「法と秩序」政策の常態化は、こうした「新しい過剰人口」の形成に対応している。これについては第二章、第四章で眺めてみて、ある程度フーコーの問題設定のなかに位置づけようと試みてきた。しかし、フーコーの統治性が、生にかかわるとすれば、それはバリバールのいうように「フーコーが理論化しようとしたあらゆる権力関係の対極に位置する」(Balibar 1997=1999 p42 訳一九三頁)ものである。この「破壊および死のための死という次元で行使される剥き出しの力」をどう位置づけ、それにふさわしいどのような抵抗があるのか、それは私たちが注意深く「現在」をまなざしながら考えねばならない課題である。

要するにフーコー流の「自己」への着目は既に資本によって掠め取られ、資本の側の戦略としてニューライトから提示されているのだ、ということが一つ、そして労働力商品をできるだけ要らない生産様式へと移行することで「使い道のない過剰人口」が生じそれが排除の対象になっている、ということがもう一つ。「自己への配慮」をも搾取する資本・ニューライトの論理と実践にどう抗えばいいのか? そして「使い道のない過剰人口」(≒「負け組」!?)の側に自己がはっきりと篩分けされてしまったことを認識した時どう振る舞えばいいのか? 自暴自棄になるのでもなく、絶望的な「蜂起」をするのでもなく、「自由」を実践するには、「特異化」や「自己価値化」を実践するにはどうすればいいのか?

そしてかれの結論は以下のようなものです。

だから問題はこうなるだろう。この脆さ(にもかかわらず、ではなく)ゆえに強い、そしてあらゆる許しがたい力の行使を可能なかぎり最小化できるまでに膨張する、そんな公共性をどうしたら構成できるのだろうか? (とりわけ主体のいまのあり方にかかわる)事実へと凝固した地層をつねに中断させるがゆえに、奇跡(アレント)の色を帯びる〈活動〉の内在的力としての自由。「人びとは蜂起する、これは事実だ」、これがフーコーリベラリズム論の手前にある揺るぎない命題であるとすれば、自由はアレントの課した制約も食い破ることでリベラリズムパラダイムが知らない地平へと私たちを運んでいく。

私にはこの文章を読み解くことはできませんでした。「犬死に」はしたくない、それは回避する。ではわれわれには如何なる実践、如何なる「生」が残されているのでしょうか? 本の中ごろにある次のような箇所が示唆的だと思いました。

欲望としての性ではなく、複数の身体と快楽。述べたようにセクシュアリティの装置は欲望と身体とをむすびつけるといってよい。つまり、私の欲望はこれこれです、と語らせることによって、身体に同一性を埋め込み従属させる装置。その際、行為とむすびついていた(他者との関係のなかで触発されることなしにはありえない)複数の快楽は、告白という儀式を介して、欲望とそれが描く人格の同一性につながれ、限界づけられてしまうのだった。欲望はそれにたいして、身体を欲望から切断させ快楽──後述するようにフーコーにおいては快楽は欲望と対照的に、主体の外の出来事であり、分散し、流動的、うつろいやすく、けっして同一性に帰着することがない──とむすびつけること、この身体をめぐるエコノミーの再編成がフーコーの抵抗の展望を示唆している。

六八年以来、街路を自らの思考の源泉とした思想家にとって、問題は「冷笑家」たちの修辞上の華麗なヒネリ合いに加わることではなかった。脱中心化、分散、「自己からの離脱」といった「外」の(非)経験が現実に生きられている「街路」において、そのような経験の場をポジティヴな新しい関係性の生産の場に組み替えることは、とりわけそこで生きている人びとにとってはほとんど選択の余地のない生き残りのための手段なのだから。問題はそうした「外」を生きうるものにすること、行為を与え、さらにはそこに「主体」の構成の過程、または「自己」を位置づけることこそが問題なのだ。たとえば快楽とはフーコーの定義では主体の外の経験なのであるのに、そこからほとんど不可能であるかにみえる、社会性あるいは公共空間を構築することができる。とフーコーは言うのである。フーコーは快楽と身体の多数性を、去勢なき快楽への没入や壊乱的な「外」の(非)経験の称揚でもなく、むしろ「禁欲実践」の「行為」とさらにそれが織りなす公共性の構築の素材として提示する。フィスト・ファックですら拍子抜けするような場面の出発点となるのだ。「実際フィスト・ファックについてフーコーをもっとも悩ませたのは、規範から外れたある性行為が、どのようにして一見べつべつの無関係のできごと、手作りパンの即売会とかコミュニティの資金集めパーティとか町内でのお祭りとかの、出発点とか基盤になるかだった」(Halperin 1995=1997 訳一四五頁)。「ウラ」の、「地下」の公共性──こうしてフーコーは、近代の正道を行く思考とは袂を分かち公共性をその「地下性」の「暗さ」において定義するのだ。

快楽といった「外」の実践を通じて、「「地下」の公共性」を現出させることこそが問題なのだ、というのです。私はここに、共同体或いはアソシエーションの問いを読みたいと思います。快楽を社会性或いは公共空間と結びつけること。それは平たくいえば「地下」での「仲間」作り、「友達」作りだと私は思います。「街路」に出て、「「外」の(非)経験」に身を晒しながら共同性なきコミュニティを紡いでいくこと、脆いが故に強い連帯の絆を創出していくこと、等だと思います。そこからイタリアのアウトノミア運動の自律性にも繋がっていくのだろうし、強引に結びつければ『希望のニート』の著者が主宰する引きこもり・ニート支援の団体で為されているような仲間作り・友達作りの実践にも繋がっていくのだと思います。NAMやQといったものも、そうしたものであった、或いは、そうしたものでなければならなかった(実際にはそうではなかったにしても)と思います。さらに強引に飛躍すれば、今回の早稲田の不当逮捕すらも、「「地下」の公共性」の顕在化を巡る大学当局と学生運動側の闘いの一側面であった、と考えます。その起源に大学紛争を持っていた地下部室における、教室では味わえないほとんど不可能な出会いとコミュニティの公共空間、それが731闘争の過程を通じて剥奪されていったこと、そしてそれが運動・闘争を通じて回復されようとしていること、そうした問題性があるのではないかと思います。