RAM箴言集

■われわれの生活様式は様々な道具連関・情報連関によって成り立っている。■われわれが目論む「商品カタログ」とは何か?それは売り手の論理を拒絶し、買い手(使い手)の論理を貫くものだ。■資本制に基づく商品を使用する(消費する)ことに明け暮れた生活。行為も、身体機能も、想像力も、会話も、表情も、朝早くみる夢さえも、一言で言えば人生の大半が、それらの道具連関によって規定され、その連関の中での諸要素を使用する(消費する)ことに拘束され、侵されていく――消費の営みのうちに自らを消費し、食いつぶしていくこと、そのことを余儀なくされる生活の構造!■われわれの欲望は、常に・既に、様式化され、均質化され、そして占有されている。したがって、欲望する肉体を、欲望する諸機械の連関を、徹底して組み替えなければならない。■個々の人間が直面する具体的な場面においては、何がNEWで何がOLDである、とか、何が正しくて何が間違っている、とかの、真偽の判断をなしうる超越的な基準は決して確保しえないのがむしろ通常である。■「ランダム」とは散漫ということではないのだ。■「成功/失敗」という二分法からの脱却。成功を目指さなければ失敗もない。機能不全から新しい機能が生まれる。■身体機能の転換。ある表情から別の表情への移り変わりかたの、会話の作法の、それら全ての連関の、「組み替え」作業。自らの身体そのものの使い方への吟味を通して、「空間」に対する批判を通して、「暮らし」の変革を試みること。一言でいえば、「変態 metamorphose」すること。そして「変態」と「変態」とを結びつけること。■「私は・・・である」。だからこれを提供する。そのこと――プロとしてのスキル――に基づく商品やサービスしかない市場は行き詰る。「私は・・・になる(なれる)」。ここから生活形態が変わってくるだろう。すき間サービス。草の根的生産。即時的取引。■そうだ!「変態」だ!「倫理的―経済的変態」だ!■われわれはram交にram交を重ねて自由を獲得してきた――いまだかつてない<交換>を通じて!■「半・専門家」の重要性。学ぶ者が、専門家に対して「どうしてあなたにそれができるのか・それが教えられるのか?」と「質問」していくこと。そのことによる知識の検証=組み替え作業。■釘を使いたいなら、トンカチがいる。皿を洗いたいなら、洗剤がいる。床を掃除したいなら、掃除機がいる。CD――オーディオ。映画――映画館。ウンチ――水洗便所。生理――ナプキン。ナンパ――ラブホテル。鼻水――ティッシュペーパー。ネクタイ――出勤。出勤――電車。電車――痴漢。痴漢――パンティー。下半身――下着。体――衣服。家――ドア。都市――ビル。郊外・田舎――畑・田んぼ。主婦・こたつ・蜜柑――みのもんたのワイドショー。ああ、もう十分だ!止めてくれ、それぐらいにしてくれ、これら無味乾燥な公式、死にたくなるほど退屈なその「道具=情報」連関!この絡まり合った袋小路。それらの網の目を根強く組み替え、もみほぐし、なし崩しのうちに機能転換せよ!■うんざりだ、友よ!女よ!そろそろこの袋小路の生活を、根底から問い直そうではないか!「生身の人間」という厄介な、だが、決して避けて通ることのできない領野へと、勇気をもって踏み入ろうではないか!いったいそこには何が見えるだろうか!「生身」であることから発した「組み替え」とは何か?――「買い手(使い手)の論理」を発明すること。その論理を技術知として集積していくこと。何より、その絶え間ない集積の過程を思う存分楽しみ、享受すること!Jouissance(享 ―楽・受)。■プロジェクトとしての「RAM-catalog」は、商品がない、自分にもなんの技術もない、ならばこのQ借金をなんで返したらいんだ?というプレッシャーと恐怖からうまれた。---「お掃除しろ」?しかし私は植木屋だ、そんなものはしょっちゅうやっている、犬や猫のうんちだって知らない間に手でつかんでいるからな、おもしろくない!----ならば商品開発しよう、と。■教科書。それは教育機関による、国家による「支配」。この「支配」に対していかに介入し、そしてこれをいかに撹乱すればよいのか?■本来 非同期的であるはずの個々の現在を、同期のものにするという仕組みにおいて、「記念日」とは、ナショナリズムと結びつく。「想像の共同体」とは、こうした同期性によって確保されるのだ。■記念日とは何か。今日という今日を犠牲にすることだ。かっての いつかの誰かの一日のために今日を台無しにするーーそれが記念日ということである。ゆえに男よ、あなたは何も想起せず、何も代表せず、今日という今日こそを取りかえす術を、学ばなければならない。明日でもなく昨日でもなく彼女でもなく、少年でもなく男よ、自分自身こそを愛せ。ありうべき無数の今日を取りかえそうとするならば、ただ目の前のここにしかない。今日を記念する今日は なぜないのか。こうしていつものように歴史の犠牲にされていこうとする今日のために、それ自身の代償に、これから、未来から訪れようとする誰かの一日を、こんどは犠牲にしようとする。これが愛という名で行われる教育の実体であり、かように、記念日とは淫らな想像物にほかならない。ゆえに男よ、自分自身を犯し、自ら享楽をえる技を、学ばなければならない。■痴漢者よ、なぜパンティーの下、ブラジャーの下だけに固執するのか? なぜ触らなければ気がすまないのか? もっと君の肌を敏感にせよ! 匂いをかぐだけで幸福にしてくれる女性を探せ! 君の嗅覚を、心を尽くし、技術を尽くして研ぎ澄ませ、親愛なる痴漢者よ!■例えばそれは「新たな掃除の方法を発明する変態」だ。また例えばそれは、アトピー皮膚炎を、批評の契機へと「変態」させることだ■・・・私はこの問いをつぶさに検討してみた。そして私自身の体に、ナメクジのように執拗な目線を投げかけた。その結果私の獲得した解答!それは何の変哲もなく見える解答!にも関わらず、まことにこの肉体というプリズムを通してしか「偏向=偏光」させることのできなかった、一筋の光明!――日々私が口にする食物、喉を潤す飲み物、手に触れる洗剤、頭や体にぬらぬらと這わせる石鹸・シャンプー、鈍磨した味覚とともに歯肉や口蓋へと塗りたくるあの歯磨き粉、これでもかこれでもかと撒き散らされた調味料の数々。それら全てに反応しては新たな湿疹を産み出す私の、じくじくとしたこの肉肌=プリズム!■病を、批評への契機とせよ! 常に君自身の、絶え間なく変わりゆくその体から、汚れた垢を洗い落とし、そして浮かび上がった毛穴の数々にナメクジのような目線を這わせよ!■精神病者自身が『百科全書』をつくることは可能か。精神病者たちが自分自身の言葉で『百科全書』をつくることは可能か――読者は誰だ。■無媒介に確保されている先験的な判断基準――理論を批判する視点をもちえないならば、必ず躓く。■こうした、そのつど直面を強いられるきわめて特殊な(決して一般化も、普遍化もしえない)事態をどうのりきるか。単純な決断主義(シュミット?)に傾斜することなく、その各々特殊な事態を特殊なまま把持し、なおそれらを自在に連合(アソシエート)していく方法を探る。■ヤギ――非資本制的な動物。牛 ――資本制的な動物。国家と資本に対抗するための、「偏向」的分類学の創出!■買わないぞ、ブリーフのパンツ!はかないぞ、ブリーフのパンツ!夜の安眠が可能なのは、すっぽんぽんになることによってだぞ!ブリーフのパンツ・ボイコット運動!■出来事<について>語るのは、簡単なことだ。だが自らが社会的な諸関係のなかで、いかなる手段を使うにしろ、出来事としてふるまい、生き方を模索するのは困難なことだ。■他人を変えようと思ってはいけない。ぞうしたいならまず自分が変わるべきなのだ。■究極の「道具連関の組み換え」は軍需産業から民需産業への転換である。■デモは、デモだ。参加人数など関係ない。自分が意志表示したかったら、それが暴力であると受け止めて、私なら覚悟を決めてやるだろう。他人ではなく、自分に何ができるのかをはっきりさせたほうがいい。条件や状況が不利だからこそ、考える必要がでてくるのだから。■鳥が生きられるような世界に返そう。世界中の海が汚物化している。■気候、風土、体質にそぐわない服を着ることを強いる関係性――ここに、衣服の「倒錯性」が如実に現れている。人間は「虚構」を身にまといつづけるのだ。■いつ縫うのか?いつ食べるのか?なんで私の母親は子供の残り物をあんなに真剣な表情で「負けてたまるか」というばかりにして食っていたのか?いつ寝るのか?――-衣食住という生活自体がヒエラルキー化されている。その資本主義下で序列化されている生活(道具)連関自体を変えていかなくてはしょうがなくなるだろう。しかしその連関を替える、ということを考える場合に、「いつ」という問いがでてくるだろう。だからメモリー(想起)が問題になってくる、そしてそのアクセスの仕方(メソッド)が。つまり垂直から水平化へと。その体系的な形象として、「RAM-catalog」なるものをつくってみよう、ということになったのではないか。■なんで遺伝子の組み替えが悪くて、テクストの組み替えはいいのだ? なんで自然の水平遺伝はよくて、人為的な水平遺伝はだめなのだ? 遺伝子組み替え技術を応用してクローンとしてうまれた羊のドリーちゃんは、女なんかなしで自分そのままの二世を産みたい、という男の夢として作られたのだそうだ。■ 整地も必要とせず、ということは山も崩さず、木も倒さず、治水もせずに、「棲む場所」を作ることはできる。端的に木の上に棲めばいいし、舟の中に棲めばいい。電信柱の上にさえ家は建つ――技術的に確立している。■「〜について」ではなく、「〜から」別のことを考えるようにすればいいのだ。考えるとは、そういうことだ。アカデミックな学者的態度(「〜について」の研究)というのは思考の名に値しない。■帰国子女入試で、簡単に大学に入る方法――親の海外転勤がなくとも、あなたも帰国子女になれる! ニューヨーク近辺のおすすめハイスクール情報、受かりやすい大学はどこか。そして塾講師マニュアル――あなたも塾講師になろう! 生徒に受けるギャグ、効果的なキレ方、入試前の「感動的な」気合の入れ方、全国の塾・予備校裏情報、面接で採用される方法、生徒とプラトニックラブを続ける方法、最も少ない労力でなるべく多く稼ぐ方法…。ニューヨーク・サバイバル情報――安い部屋の見つけ方、ただで食事をする方法、ナイトライフ、日本では見れないAV、ラテンクラブ、無料で参加できるイベント、安い英会話教室、ドラッグ…など。何と言っても、ポルノグラフィとフェティシズムの問題。■精神病者たちがつくる『百科全書』と医者達・反精神病者達がつくる『百科全書』をくらべる――抵抗は可能か?■精神病者たちと共同作業できるものとは誰か。「鍵」という単語を思いつくことのできるものではないか? それは精神病者たちにとって重要な単語だから。■ゴミ捨て場は、華やぎをもたらすものであり、それ自体華やぐものだ。■精神病者が「独房」という項目を執筆するにはどうすればいいだろうか。医者の観点からみたこれら用語集と、精神病者の観点からみたこれら用語集を比較する―――医者が書く「独房」、そして精神病者が書く「独房」。2つあってもいいはずだ。■自意識は、「欠如」しているよりは「過剰」であるほうが、少なくとも生産的ではあるだろう。■「誤謬への権利」は、「誤謬の矯正」と矛盾しない。むしろそれらは相互補完的である。■「独房」における医者と精神病者は理解しあえるだろうか。たとえば、「独房」を中心とみなせば、管理する人=医者、管理される人=患者となり、鍵をあける人=医者、鍵をあけられる人=医者となる―――独房は中から「鍵」があけられないのだ。「鍵」という概念――コンピューターのセキュリティーについて思い起こそう。精神病院とサーバーの構造の間に、類似性を見出せるはずだ。だが、「独房」にいる人は、その外にいる人と話をする時、同時にもう一人の人と話をしているのだと思う。やはり、ここで問題なのは、2人称ではなく、3人称なのだ。■われわれは反対する。本来一般解が得られないはずの課題を強引に一般化=パッケージ化することに。つまりは、「商品」として一般的な標準型にまとめあげ、われわれの生活ないしは嗜好をも型にはめていまおうとする態度に。■口説けるのか、口説けないのか、それが心配だ――そう君はいう。若者よ、結果を気にするなかれ。重要なのは、口説く過程を楽しむことなのだから。■ 精神病者である彼/彼女。できるコラージュを武器にして、医者も仏教家も美術家も論破すべきだ。彼/彼女が共有するであろう単語と、社会の中でそれと類似しているであろう単語を比較することは可能だ。なにもしなければ、公開しようが、非公開であろうが、彼/彼女はつぶされる。彼/彼女は、何かすることができるはずだ。だが、論争するためには呼吸をする必要がある。コラージュを武器にすれば、少なくとも呼吸はできるはずだ。■例え万人の一致をみなくても項目が執筆されてしまう――されてよい――ということが、RAM カタログの持つ積極的意味である。このカタログで扱うのは、真と偽の判断のようなものではない。むしろ、もとより一般解のない課題に、いかに無数の特殊解を示していくか、そしてその無数の特殊解のアソシエーションを企図する――それがわれわれの意図である。■規格化され様式化された商品は、個々の使い手ごとに、意味も価値も(値段も)それこそ多様にそのつど、変化していくものである。その生成・変形・活用の文法こそを、われわれはRAMカタログにおいて記述してみようと考えたのだ。■では「土地」とはなにか。それはあからさまに国家との帰属関係を示している。理論的、工法的には、あらゆるところに、いまや住宅は建てられうる。上下水道、電気、交通手段、インフラがないところに、住宅が建てられないというのは、刷り込まれた観念に過ぎない。つまりわれわれの中には、知らず知らずのうちに、住宅という「商品」――国家によって規制され消費誘導されたーーによって、規範としての生活様式が刷り込まれているのだ。 ■建築論は、単に「工法」の問題ではない。むしろ「土地」との関係であり、インフラとの関係である。逆に言えば、建物の基礎(土台)という観念をくずせば、「建築」自体が大きく変貌しうるのだ。■商品という枠(観念)を産みだし、保持させている仕掛け。「商品」というパッケージ(定型)には、必ず国家の影が潜んでいる。■建築史――私の周囲に山と積もる、建築の時間。交換の不成立、そして「ストック」状態になったまま流れ去っていく遠大なその時間!■諸君! いま「歴史工学」が必要とされているのだ! 建築ストックの交換可能性に向けて、それらを組み替えていく工学的作業が!■建築史研究から「設計」へ、そして「修理」へ―――私は「歴史」という言葉に脅かされながら彷徨を続けてきた。近過去のもの。過去のもの。過去の膨大なる集積。それらが常に私につきまとい、いや、私だけでなく、建築的事物どもに取り憑いて離れなかった。以来、ありとあらゆる「新しい建築」は、私の目にある種のおぞましさをもって映り始めた―――亡霊たちを無視するこれらの「新しい建築」こそ、次から次へとストックされていく亡霊の営みそのものではなかったか!■企業で働くうちに病気になる人は、正しい人である。■病気(鬱病)になどならないと思っていても、ある日突然病気になる。そのことに理由などない。■「原因」だと思えることは、偶然のきっかけに過ぎない。理由などないから、恐ろしいのだ。■贈与でも資本主義的交換でもない、「先贈り」について――。病気になるのに理由はなく、医師にできることは少ない。大事件が起こるたびに「すいません、自分がやりました」と交番に出頭しようとして家族に止められたりしながら日々を過ごす者がいた。ある日突然、彼の前に修験者が現われて、治してやると言う。半信半疑でいたら、その修験者は離れたところで滝に打たれて行をしてくれた。そして実際に、病気が治ってしまった。その修験者は去ってしまい、お礼ができなかった。そこで「お返し」は、修験者その人にではなく、別の無関係の人(将来、偶然に出くわすような)に対して、その修験者と同じようなことをすることでなければならない。その別の人は、その行為のお礼を、自分にではなく、やはり無関係の別の人に対してやるのでなければならない――このようにして続いていく。■情けない話をひとつ――。昔ある場所で、ある方々といきがかり上のデモをしていましたら、放水車、というのを使われまして、またあの水が、ただの水ではなく、放毒水車と呼んだ方がいいと思われるのですが、それには、筋肉弛緩剤というのが混ぜ込んであり、それを浴びたら、ガードルを使用していなかった分、無理に筋肉で引っ込めていたお腹が、ぶよん、と出てきてしまった、という体験をしました。まるで、うそ発見器のようでした。■便利だと思ってひとが飛びつくものには必ずワナがある。企業の利潤が目的に設定されているからだ。■ランダムな習慣。行動の原型(マトリックス)を突然組み換えること。人間性を変えるのではなく、多数の微小な習慣の組み合わせを組み換え、目にみえる大きさの行動も変える――。例えば、過度のアルコール嗜癖、関係破壊的な言動(精神的環境破壊工作、精神的拷問、意識的・無意識的な攪乱策略等々)について、マトリックスの認知と偶然性の導入による突然の変貌をもたらすことはできないだろうか。社会的諸関係へのドミノ倒しのような連鎖。切断/連合させる仕組み。■ 「新しく」建てよ!?「古い」建物は壊せ!?――友よ、いったい君は何をそう思いわずらうのか!落ち着いて耳を澄ますがいい。目を凝らすがいい。聞こえないか? そして見えないというのか?――そこに交換への気配が。流通への胎動が。「旧来の」建築のなかの、見えない譲与、剰余。まことに私は云う。知恵と認識と勇気! すなわち、悦ばしき技術知! これらを持つ者だけが、その剰余を獲得できるのだ。■いったいこの私のしていることは何だろう! 何せ一日たりとて休まずに「12年間分の幻聴カタログ」を作り、自己流のインチキな精神分析・夢解釈を付与し続けてきたのだから!こういうことは、私のように情緒不安定な人間には精神衛生上良くないこととされているのだそうだ。しかしこれは煙草やお薬やヨッチャンイカとおなじで、やめられないのさ!■「遅延」――任意の対象Aの推移と任意の対象B、C、D…の推移の、偶然性をともなう時間的なずれ。この場合、AとBには、さまざまな「特殊」が代入できる。その各特殊の関係-無関係が、「遅延」としてあらわれる。それが、「構造」あるいは、制度や因習などを組み換えることを要請する。だとすれば、この構造をどのように捉え、また操作可能なものにするのか、という問題が浮上する。■独房の鍵は中からはあけられない――。冷蔵庫はいったい何を望んだのだろう? 冷蔵庫という、中からあけることのできない「独房」で、野菜たちはどんな思いを抱いていたのだろう? ――いまの主婦たちは週に一度スーパーから溜め買いをする。「溜めて買うってのは、貧乏人だからやることだったんだ」とあるお笑い芸人は言った。だとすれば、商店街は贅沢な人たちのためのものだったのだろうか? 冷蔵庫は、貧乏人の救世主だったのだろうか?

Random Acces Maxims Mix DJ :田口卓臣