ママゴトの効用

NAM末期、及び解散後について、残念なことは、柄谷行人「Qは終わった」及び市民通貨の提案以降、多くの人がQ(或いはLETS一般)を「ママゴト」とか「オモチャ」といって嘲弄的に否定するようになったことだ。

LETSを、通帳に書き込むことを通じた貨幣発行を「ママゴト」と呼ぶのであれば、アミダクジもまた「ママゴト」であったというほかない。

そのような「ママゴト」に何故、いい年をした大人が大勢熱心になったかといえば、柄谷氏という著名人が提案したからにほかならないが、私はここで「ママゴト」には「ママゴト」なりの、子どもらしい遊戯の精神があり、それを導入することが社会運動にとっても良いことなのではないかと言ってみたい。

多くの社会運動の言説は悲愴である。全てが悪化している、悪い方向に世界は動いている…。何か明るい兆しは全くない。それが現実だといえば現実だ。しかしそこで何かユーモアのような精神をもって、その現実を「否認」するような審級があったほうがいいのではないか。そのようなものがアミダクジでありLETSなのではないか。

というよりも、NAMそのものが、生真面目であるとともに笑いでもあるような、そうした審級に属していたのではないか。NAMで柄谷氏は、NAMはドゥルーズのいうvirtualityに属する、それ自身としては何もしない、と明言し、それは「新NAMの原理」にも盛り込まれている。それは以下のようにいう。

最後に、あらためていうが、NAMは対抗ガンとしての運動である。NAMの「原理」はいわば遺伝子であって、資本=ネーション=ステートというガンのなかに、対抗ガンを作り出す。したがって、NAMが組織として拡大するかどうかは重要ではない。「NAM的なもの」が対抗ガン細胞として現実に定着するかどうかだけが重要である。NAMは、現実の社会がNAM的になったとき、消滅する。しかし、それまでは、virtualityとして存続するだろう。

ドゥルーズのいう純粋潜勢態(virtuality)とは、大文字の「理念」のありようを示していうものである。それは神を純粋現勢態として定義したアリストテレス及びそれ以降の全哲学的伝統に対抗する言説である。NAMは、そのようなドゥルーズ的観点を採用していたのである。

だがNAMにおけるドゥルーズ主義がいかなるものであったか、いかなるものであり得るかについては、神秘的なままに留まった。柄谷行人岡崎乾二郎だけが、それを理解し明示していた。(NAM芸術系MLにおいて。)

私はNAMにおけるドゥルーズ精神のようなものを指して「ユーモア」といってみたのだが、フロイトにおいて既にそうであるように、このユーモアは現実(の自我)の悲惨さ、卑小さに対応するものですらあるだろう。要するに私は、希望がない状態においてもなお絶望を選ばない或る種の精神を指して、「ユーモア」と呼んだのである。そのユーモアは現実の厳しさを緩和しないまでも、その厳しさに直面する自我の苦痛を緩和するだろう。

柄谷行人は『日本精神分析』のQを論じたエッセイで、村上龍の『希望の国エクソダス』とNAMを比較して、次のように述べている。

私は、自分が始めた運動と、小説家が書いた虚構の運動を比べながら、読みました。別に小説だから非現実的であるとは思いません。私のやろうとしていることも、非現実的なのですから。(柄谷行人『日本精神分析文藝春秋、p180)

非現実的であることを自覚しながら、夢想に逃避するでもなく、現実に屈服するでもなく、諸関係を組み替えながら事に当たる態度。NAMにおいて「ユーモア」が、ドゥルーズ精神があった(そして今もある)とすれば、そこにしかないだろう。