認知療法

うつと不安の認知療法練習帳ガイドブック

うつと不安の認知療法練習帳ガイドブック

をほぼ電車内で読了した。良書である。
私自身の認知のことも電車内でずっと考えた。
自殺のことを考えることは、以前より少なくなってきている。とはいえ、大学院を出て以来、自分が駄目になってしまったという「コアビリーフ」には取り憑かれているが。
もうひとつの「コアビリーフ」は両親(特に母親)が死ねば自分は破滅するだろうというもの。
さらに、「自分は失敗作だ」とのコアビリーフもある。
音楽についても考える。「私はピアノが全く弾けないわけではないが、良く弾けるわけでもない。少し弾ける。そのことが私を悩ませている」と考える。
それらに対して反論を試みるが、難しい。私の認知は歪んでいるのだろうか。私は自分自身が実際に失敗したと思うのだが。
とはいえ、言語化することで内的確信を客観視でき、それが誇大なものであることを認識することで感情の療法になるというのは、スピノザ的な倫理(エティカ)にも沿っていると考える。

私自身についての馬鹿げた逸話を少々。
私は、ドゥルーズ=ガタリの研究者になろうと大学院に入ったのだが、本来の望みはそれとは少し違ったものだった。私は生(自分)や世界を変えたかった。私は「スキゾ分析家」になりたかったのだ。
とはいえ認知療法等に比較すると、スキゾ分析(制度論的精神療法)には確立された基盤があるわけでもなく、臨床に応用可能な具体性を備えているともいえない。私が知るかぎり、ガタリの著書の中で、簡単なものであれ症例報告といえるのは、4例しかない。

精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)

精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)

に出てくるカフカに似た青年、
精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から

精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から

で言及される料理人、
分裂分析的地図作成法

分裂分析的地図作成法

に出てくる母を亡くして声域を1オクターヴ失った女歌手、そしてガタリ自身の夢分析カフカプルーストの作品(の分析)がスキゾ分析なのだといわれるかもしれないが、それでは抽象的過ぎる。実際にこころ系に悩む人にとって、それでは頼りなさ過ぎるだろう。
反精神医学はまだ精神医学であった。レインやクーパーは精神科医として働き、症例を提示している。それに比べ、ガタリのスキゾ分析(制度論的精神療法)は難解であり、実践に応用可能かどうか定かでない。ウリなど周辺の重要人物の著作が邦訳されていないからかもしれないが、(反)精神医療として、実際に苦しんでいる人(患者)にどうアプローチするのかが見えてこない。『精神の管理社会をどう超えるか?』はそれでも具体的なほうであるが、それですら私には抽象的に見える。

私は主治医から不安障害と診断されている。発症した当時のことを少し書いてみたいと思う。

911があった時、なぜか私は自分が倫理的に誤っており、責められるべきだと感じた。NY在住の知人らの安否が分からず(実際には全員無事だったのだが)、彼らが死んだとすれば私の責任だと考えた。
NAMでも急遽反戦プロジェクトが立ち上げられたが、それの会合の後、私は自分の超自我としている人物から軽蔑されたのではないかという気がした。馬鹿で倫理的にも誤っていると思われたと感じたのである。それが最初の発作だった。
発作は職場でも起こした。別の超自我的人物に対して大変申し訳ないことをしたという考えに陥り、電話をして確認すると、相手は私が何か詫びるべきことをしたとは全く思っていない、というようなことが続いた。
今でも不安発作は超自我的人物に対してよく起こるようである。その人からどう思われているか気になる相手に対して、その人から軽蔑されたのではないかと思い、確認行為に必死になる。そういう発作を起こす。
もう数年も抱えている病気なので、自分でそのことは分かっている。自分で自分を止められないだけである。