国家への対抗

わたしが日比野真さんや関組長が素晴らしいと思ったのは一種の勘のようなものが働いてでもあったけれど、別の理由、ある意味では「理論的」といえるかもしれない理由もあった。

  • 社会運動とは何か、その条件とは、ということを問う一種の反省的な契機を持った運動家が日比野真さんや関組長だった。
  • 国家やネーションへの具体的で有効な対抗を提示している運動家が日比野真さんや関組長だった。

今年の1月に解散したNAMの経験は、それまでアカー(動くゲイとレズビアンの会)以外に社会運動に関わったことがなく、学生運動には反感をもっていたわたしにとって初めての本腰を入れての社会運動(になろうとした運動)の経験であり、失敗の経験だった。
NAMの理論の最も特徴的なところは、「交換」という概念で資本−国家−ネーションの三位一体を把握し、「経済的」な仕方でその三位一体を揚棄しようとしたことにある(協同組合と市民通貨)。
しかし、単に「交換」の一環、「収奪と再分配」の装置として把握されるかぎりの国家だけを考えるのでは、警察や軍や公安などの暴力装置を具備し、実際に「合法的」に暴力を行使する国家という存在を十全に捉えることができないし、それへの具体的で効果的な対抗を構想することもできない。
ポイントカードやフェアトレードを幾ら推進しても、地域経済の活性化や倫理的経済の推進にはなるだろうけれど、暴力を独占した存在としての国家に対抗することには少しもならない。
NAMは「市民」というような抽象的な存在ではなく、「消費者」という具体的な存在から対抗運動を組織しようとした。
「市民」が抽象的な存在であるのに比べて「消費者」は具体的な対抗主体だというなら、関組長が強調する「納税者」もまた具体的な対抗主体だというべきだ。
また日比野さんが強調する「少数者」「変態」の側から力関係を組み替えるという視点も、家族や地域共同体や国民などのネーションへの対抗を考えるとき重要であり、「市民」というような抽象的な存在ではなく「(性的)少数者」「変態」というような具体的な対抗主体を措定することが必要だ。
NAMの理論と実践においては、「経済」的な対抗運動の構築の必要性が強調され、政治や文化、生活態に関しては軽視されがちだった。
しかし、ポイントカードやフェアトレードは世界戦争を止めるのにも、セクシュアル・マイノリティが自己肯定しさらに力関係を組み替えていくのにも無力だ。
後期NAMの「唯Q主義」の誤りは、一切を経済的な視角から見て、経済的に解決しようとすることの無理の露呈だったとわたしは今では考えている。
それを端的に示すのが、War Borcott Networkの活動停止だ。
世界戦争を止めるのにgeneral boycottは当面不可能であり、個別ボイコットも困難であるという事実のあらわれが、反戦運動におけるNAMの不活発さだった。
地域通貨Qを放棄するだけではこの誤謬を総括することにはならない。
全てを「交換」の相において把握し、「経済」的な対抗運動を他の次元に比較して優位に置くNAMの根本的な理論の正当性が問い直されるのでなければ、その誤謬を総括することにはならない。
日比野真さんや関組長、稲場さんらを含めて多くの社会運動家から学ばなければならないのは、以上のことのようにわたしは思っている。