近況アップデート纏め

おはようございます。

「以前、東郷健と対談した岩波文庫の『資本論』の訳者(旧社会党、労農派の人)が社会主義になれば同性愛は治るとかいって東郷健を怒らせたという話をしましたが、そのような粗雑な認識の「知識人」が国家権力を、それも絶対的な権力を握るようなことがもしあったなら、と想像するとぞっとします。」→このように昨晩、私は書きましたが、21世紀の現在でも、同性愛は病気、犯罪だと公言してはばからない外山恒一が「国家顛覆」とかいっているわけでしょう。客観的にいって、外山恒一などに「国家顛覆」できるなどとはまるで思いませんし、彼ら自称「ファシスト」が国家権力を獲得することはあり得ないと思いますが、それでも不愉快であることには変わりはないですね。

それから、初期のフーコー(『夢と実存』『精神疾患と心理学』)を読み直して、どうして彼が現象学を離れたのだろうか、と考えました。ひとつは、人間の心的生活、心的体験にこだわる立場から、具体的な歴史的な古文書を探査するというふうに変わったのだろう、と思いました。ビンスヴァンガーのように、「実存」的な体験の記述にいかにこだわっても、それでは狂気の「歴史」を書くというようなことは永久にできない。ではフーコーは、哲学者(現象学者)をやめて、歴史家や社会学者になったのでしょうか。そういう話でもないように思います。ただ、そのへんは微妙な問題ではないでしょうか。

ドゥルーズデリダと全く異質なフーコーの個性、特異性は、フーコーがまったくジャンル分け、分類不可能なひとだということです。彼は狭い意味での哲学者ではありません。では歴史家なのかというと、それは難しい。当時(1960年代)の「新しい歴史学」として、アナール(年鑑)学派がありました。長期的な持続や緩慢な変化に着目する、というようなものです。フーコーはこの「新しい歴史学」におおいに触発されましたが、異論ももっていました。彼にとっては、知や言説のレヴェルでも、実践(例えば病院や監獄などにおける)のレヴェルでも、特定の時期に「激変」があることがある、というのが重要だったのです。彼はそのような自らの方法を、「事件化の方法」といっています。

デリダの『狂気の歴史』批判、フーコーの反論、ということがありましたが、どちらが正しいかというよりも、デリダのいっていることはつまらないと思いました。彼がいうのは、要するにデカルトの『省察』の解釈が正確ではない、厳密ではない、というようなことなのですが、『狂気の歴史』の主要なテーマがそのようなところにはない、というのは誰の目にも自明です。デリダはどこまでも「哲学者」なんですね。だからつまらないと思います。

ドゥルーズフーコーは友人でしたが、しかし、考え方、着眼点がまるで違います。フーコーの考えでは、現代世界(ということでいわれているのは、20世紀、第二次世界大戦以降、原爆投下以降ということですよ。念のため)特別に重要なのは、オッペンハイマーのような原子核物理学者の知なのだ、ということでした。フーコーは1980年代にエイズ禍(もっとも初期の患者、犠牲者だったはずです)で死にましたが、もし今現在生きていれば、原発の問題を専門的・科学的な知と権力というような観点から具体的に分析し、なにか社会的に発言していたでしょうね。

ドゥルーズは「原国家」というアイディアにこだわるのですが、フーコーはそのような資料で実証も反証もできないような思弁に無関心だったと思います。「原国家」の有無というのは、神が存在するかどうかというのと同じレヴェルの話で、実証も反証も不可能です。フーコーが『アンチ・オイディプス』を倫理の書と呼んだのが的外れだと以前いいましたが、そのような褒め方しかできなかったしするつもりもなかったのではないかと思います。彼は一見深遠そうな思弁や妄想には興味がなかったでしょうし、それに「倫理」に関心を寄せていたのはドゥルーズというより当時のフーコー自身だったわけですから、結果的に彼は自分の関心のありかを語っただけだったということでしょう。

理論をすこし離れますが、フーコーを、例えば『思考集成』を読むと、気の毒に感じることがあります。ひとつ挙げれば、彼は、ハッピーな自殺が絶対にあるはずだ、音楽家の誰それは幸福に死んでいったにちがいない、というようなことに非常にこだわるわけですが、私には、彼がそうあってほしいと願っている、というふうにしか読めません。彼は、奇しくもおなじ音楽家(現代音楽の作曲家)ですが、同性愛の恋人を自殺で亡くした経験があります。そのひとの自殺はべつにハッピーでもなんでもなかっただろう、と思いますが、それが若い彼にいかに打撃だったかというのは想像がつきます。

政治経験にせよ、同性愛の経験にせよ、フーコーの世代と21世紀の我々とではまったく違ってしまっていると思います。彼が生きた時代には、東西冷戦があり、同性愛への差別や偏見が(それこそ左翼や進歩派のなかにすら)ありました。べつに21世紀だから、今は自由で解放されている、同性愛者も楽に生きられる、とかは思いません。ただ、フーコーにとってはもっと大変だったのだろう、と推測するというだけです。

それから、経験の具体性の価値ということも考えます。フーコー共産主義者に批判的であったり、マルクス主義者であることをやめたのには極めて明確な理由がありました。彼はアルチュセールの勧めでフランス共産党に入ったことがあります。しかし、同性愛のせいで周りから白眼視されてろくに活動もできず、いやになってやめてしまったのです。アルチュセールにはそのような事情がよく分かっていたので、なにもいいませんでした。同性愛者を白眼視する(「病気」だと看做す)共産主義者に批判を抱いても当然でしょう。それから、ポーランドに行って、共産党一党独裁の現実を目撃して、容認できない、と考えたということもあります。このように、フーコーのいうことには極めて具体的な経験の裏付けがあり、理由があるのです。

他方、ドゥルーズが自分はパーフェクトにマルクス主義者だ、と発言したことがしばしば肯定的に引用されます。柄谷さんもそのことを絶讚しています。しかし、私には疑問があります。そのように述べたインタビューで、ドゥルーズは、自分は共産党に入ったり精神分析を受けたり、そんなバカなことは一切やらなかったんだ、と自慢しています。しかし、それはとりたてて自慢するようなことなのでしょうか。共産党に入らなかった、というのは、現実の共産主義者マルクス主義者がどうであるかに無知だということです。彼が自分をマルクス主義者だというのは、ただ単に、マルクスのテキストが素晴らしい、例えば「世界市場」の分析が素晴らしい、というだけのことなのです。彼は自分は哲学者なのだというご自覚なので、「具体的な経験」の裏付けなど全くなにもなくていいのだ、テキストだけあればいいのだ、ということでしょうが、しかし、それを称賛するような人々はいったいなにを考えているのでしょう。精神分析にせよ、それを受けたことがないと誇っている、自慢しているということは、自分ではなんの経験もなく、ただフロイトのテキストを読んだだけで、フロイトをやっつけていたのだということでしかないでしょう。彼は、ガタリが折角職場を案内してくれたのに、現実に存在する精神病院にも、現実に存在する精神病の患者にも、一切興味関心を示しませんでした。幾ら概念で思考する哲学者なのだとかいっても、そういうことでいいのでしょうか。

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どうしてこういうことを考えたり、書くのか自問してみました。自分なりの結論は気晴らしということです。それ以上でもそれ以下でもない。私はフーコーの専門家ではありません。日本でフーコーをよく読んでいる人というと、酒井隆史さんとか渋谷望さんとかしか思い付かないのですが、彼らは社会学でしょう。自分のような哲学畑の人間(といっても、たいしたものでないのは自明ですが)がフーコーをやるのは、90年代当時も難しかったし、今も難しいだろうな、と思います。なにしろフーコーの場合は、哲学テキストの参照だけでは済みませんからね。

それから苦痛を逃れるという意味もあります。特に午前中は非常に体調が不良でとにかく苦しくてたまらない。だから、くだらないことでも、なにか考えていればそれで気が散るのですこし楽になる、ということもあります。

恋愛や性にかかわる孤独をまぎらわせるという意味もあります。「彼氏が会ってくれなくて寂しい」「若い人の若さや生命に嫉妬、羨望する」「美しい男の人に憧れる」とかありますが、それはそれでつらい感情なので、なにか考え事をして気晴らしをするということです。

ハッピーな自殺があるはずだと思いたいフーコーが気の毒だと思ったといいましたが、そういう気持ちも分かります。その昔、「かくも単純な悦び」という彼が自殺について書いた短いエッセイを読んだのですが、それがとても好きでした。そのエッセイの書き出しを今でもよく覚えています。「少し自殺の味方になって話してみよう。」というのです。

私もいろいろいやな思いをしているから、他人に警戒してしまうんですね。例えば、きれいな人(男性)が友達になってくれませんか、とか言ってくるでしょう。自分はまず、悪意があるのではないかとか、自分を騙そうとしているのではないかというふうに疑ってしまいます。というのは、経験からいって、そういうきれいな人が私と友達になりたいとかいうのは、まずあり得ないからです。そのように他人を信じられない自分は、暗い人間だな、と感じますが、致し方がないですね。

ブログを読んでわけがわからないからと去っていくひとも、本当にたくさんいるし、そういうひとの気持ちもそれなりに分かります。

私が書くことは、ロジックとして難しいというよりも、もっとべつの意味でわけがわからないでしょう。例えば、十年前の出来事の責任を取って死ななければならないのだ、とかいっても、他人には了解不能でしょう。このひとはなんなんだ、ということにしかならない。

私と友達になりたい人だけど、やはり詐欺だったようです。よくあることなのでべつに驚きませんが、やはり残念ですね。

世の中、そんなうまい話が転がっているはずもない、というだけのことです。

そういうことが多いので、自分が孤独を感じるとしても当然だと思います。

まあ当たり前ですが、同性愛も難しい、と思います。美に憧れますが、しかしそれが騙しの餌であるというケースがとても多いのです。私は騙されませんが。

どういう文脈なのか知りませんが、ラカンが「欺かれない者はさまよう」と言ったそうです。意味がよく分からないけれども、そういうものかもしれないと思っています。なぜなら欺瞞は、人間の経験の主要な一部をなしているからです。絶対に欺かれないというのは、パラノイアだけです。そういうひとはそういうひとで、「さまよう」という宿命を背負います。

こういう詐欺まがいのことばかり経験するから、自然と気難しくもなるし、人間不信にもなるし、それこそパラノイア精神病にもなってしまいます。

美しいひとが、自分と友達になりたいとか、ましてや性的な関係を持ちたいとかいうことは、絶対にありえない。もしそういうことをいって近付いてくるひとがいたら、必ず詐欺である」という信念が自動的に強化されてしまいます。

もしかしたら、彼氏のことだけは信じられるし、安心できるのかもしれません。もうすこし頻繁に会っていただけたら、うれしいのですが。

さて、この程度の騙しのテクニックで騙されると思われてしまうとは、私も随分甘く見られたものですね。寂しい人間だから、致し方がないのでしょう。苦しいとき、困っているとき、寂しいときに、甘い言葉で近付いてくる人間に、ろくなひとはいません。ほぼ詐欺師です。

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最近ドラマはテレ朝が面白いです。これも、軽く観ていたけれど、だんだん夢中になってはまってきました。昨日の放送は素晴らしかったし、中谷美紀以外の俳優さんもみんないいです。http://www.tv-asahi.co.jp/seinaru/

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話は変わりますが、もし現在フーコーが生きていたなら、というようなことを考えてしまうのは、こういうことがあるからです。3.11以降、反原発派からも原発存続派からも、権力に批判的なひとからも政府や東電からも、様々な情報が流されてきます。新聞、テレビ、インターネット(Twitterなど)。しかし、私にはどれを信用していいか分かりません。例えば、近いうちに確実に大量の子供が甲状腺がんで死ぬ、という人がいます。でもそれが正しいかどうか分からないし、そのようなおそれがあるとしても、どうすればいいのか分かりません(私は統治権力者ではないのですし)。そういう迷いがあります。

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私は現在、知の過剰のようなものを感じているということです。前も書きましたが、3.11の直後、福岡在住の友人から、どうも原発がやばいのですぐに実験君とふたりで九州か沖縄に逃げるべきだ、といわれました。しかし私は(実験君も)その決断ができなかった。緊急の命の危険があるのかどうか判断できなかったし、もし危ないとしても、ずっと千葉で暮らしてきたのにすべてを放棄して九州、沖縄に避難して、どうやって生きていけというのでしょう。そういうわけで、もし被曝するかもしれないとしても、もうそれはどうしようもない、そうなっても避けることができない、と考えました。

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体調が余りに悪く、休んでいました。今店を閉めました。NAMのことを考えようと考えまいと、体調が最悪で、死にかけているというのには変わりがないと分かりました。カウンセラーにもべつにNAMの話だけをしようと思ったわけではないですが、カウンセリングの時間が無限にあるわけではないので、全ての問題を整理して話せなかっただけです。本当は自分は問題だらけだと思います。年齢のことを考えました。37歳なのに、全く社会適応できなかった(仕事はあれこれやりましたが、精神病でやめてしまうか、リストラされてしまうかのいずれかでした)というのは本当にひどいと思うし、親には申し訳ないと感じますが、自分なりに努力をして限界であったので、もうどうしようもなかったと思います。

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YouTubeで「下手糞」「uploadするな」とか罵倒されて落ち込みましたが、YouTubeにははてなダイアリーUstreamとちがって、コメント欄を閉鎖する機能がないんですね。だからそういうことがあっても、ただ我慢するしかないと思いました。

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今もしフーコーがいたならば、という話ですが、それはたまたま自分が20世紀のフランス哲学を読んだからそう思うだけかもしれないな、とも考えました。というのは、現在の(3.11以降の)状況で悠長に「考古学的分析」などをやっている余裕はないかもしれないと思うからです。情報が錯綜していて真偽が見分けがたいというのはもうこれ以上どうしようもないんじゃないかな、とも思いました。

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ただ、今、情報を発信している人は無数にいるわけじゃないですか。きっこさんとかはなゆーさんとか、ほかにもたくさんいます。確かに私はTwitterを読み、情報をチェックし、自分なりにあれこれ考えてはいますよ。それでも自分に分かること、判断できることがごく僅かであるというくらいの自覚はあります。

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まあいまこうして書いているのも、きれぎれの意識のなかで、かろうじて断片を書き付けている、というだけのことでしかありません。実際には非現実感に圧倒されています。ただぼんやりしているというか、自分がまだ生きているのだという感覚がまったくありません。

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親は、倉数さんが成功したんだから、正君も成功するはずだ、とか言い張るけれど、自分ではそう思いません。私は倉数さんが遥か昔から小説執筆、文学研究、新人賞応募など地道に努力していたのを知っています。それが実ったということでしょう。私はなにもしていないのだから、成果もとくにない、としか思えません。ピアノを弾いたところでYouTubeで罵倒されるだけで、本当にしょうもないです。

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芥川ではないですが、良い息子でなかったということを親に謝罪し、良い恋人でなかったということを恋人(彼氏)に謝罪しなければならないと思います。彼らは私の存在や言動に、単に困ってしまっただろうな、と思います。

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フーコーは1950年代のヨーロッパ世界で、同性愛者だというだけで異常者、病人とみなされてしまうのを嘆いていたわけですが、私の場合、おなじ同性愛者たちからも異常者とか変な人とみなされて連絡がなくなってしまうんだから(彼氏を除く)しょうもないよね。それと思い付きですが、フーコーにとっては(もちろん性解放後の)アメリカが楽しかったんじゃないかな。フランス、パリの生活は窮屈に感じていたんでしょう。彼は「この田舎くさいフランス」と自国を罵っています。

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今のアメリカがまだ、同性愛的に楽しいのか、どうかというのは、渡米したことがないのでわかりません。ただ、エイズ禍が本当にひどかったころというのは、セックスするとエイズ感染するおそれがあるので、みんなもうセックスはしない。お互い裸になって鏡に映したりして見つめ合うだけ、という感じだったそうです。今どうなのかは情報がないので知りません。

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今はべつにショック、トラウマ的な出来事などなにもないですが、それでも、身体感覚が十年前とおなじなのが分かります。当時倒れてしまい、死にかけていたときとまったくおなじです。思い当たる理由はありません。まあ、しょうがないんじゃないかな。私が具合が良くないので、親は心配して泣いているから、申し訳ないとおもうけれど。