近況アップデート纏め

どうしてこういうことを考えたり、書くのか自問してみました。自分なりの結論は気晴らしということです。それ以上でもそれ以下でもない。私はフーコーの専門家ではありません。日本でフーコーをよく読んでいる人というと、酒井隆史さんとか渋谷望さんとかしか思い付かないのですが、彼らは社会学でしょう。自分のような哲学畑の人間(といっても、たいしたものでないのは自明ですが)がフーコーをやるのは、90年代当時も難しかったし、今も難しいだろうな、と思います。なにしろフーコーの場合は、哲学テキストの参照だけでは済みませんからね。

それから苦痛を逃れるという意味もあります。特に午前中は非常に体調が不良でとにかく苦しくてたまらない。だから、くだらないことでも、なにか考えていればそれで気が散るのですこし楽になる、ということもあります。

恋愛や性にかかわる孤独をまぎらわせるという意味もあります。「彼氏が会ってくれなくて寂しい」「若い人の若さや生命に嫉妬、羨望する」「美しい男の人に憧れる」とかありますが、それはそれでつらい感情なので、なにか考え事をして気晴らしをするということです。

ハッピーな自殺があるはずだと思いたいフーコーが気の毒だと思ったといいましたが、そういう気持ちも分かります。その昔、「かくも単純な悦び」という彼が自殺について書いた短いエッセイを読んだのですが、それがとても好きでした。そのエッセイの書き出しを今でもよく覚えています。「少し自殺の味方になって話してみよう。」というのです。

私もいろいろいやな思いをしているから、他人に警戒してしまうんですね。例えば、きれいな人(男性)が友達になってくれませんか、とか言ってくるでしょう。自分はまず、悪意があるのではないかとか、自分を騙そうとしているのではないかというふうに疑ってしまいます。というのは、経験からいって、そういうきれいな人が私と友達になりたいとかいうのは、まずあり得ないからです。そのように他人を信じられない自分は、暗い人間だな、と感じますが、致し方がないですね。

ブログを読んでわけがわからないからと去っていくひとも、本当にたくさんいるし、そういうひとの気持ちもそれなりに分かります。

私が書くことは、ロジックとして難しいというよりも、もっとべつの意味でわけがわからないでしょう。例えば、十年前の出来事の責任を取って死ななければならないのだ、とかいっても、他人には了解不能でしょう。このひとはなんなんだ、ということにしかならない。

私と友達になりたい人だけど、やはり詐欺だったようです。よくあることなのでべつに驚きませんが、やはり残念ですね。

世の中、そんなうまい話が転がっているはずもない、というだけのことです。

そういうことが多いので、自分が孤独を感じるとしても当然だと思います。

まあ当たり前ですが、同性愛も難しい、と思います。美に憧れますが、しかしそれが騙しの餌であるというケースがとても多いのです。私は騙されませんが。

どういう文脈なのか知りませんが、ラカンが「欺かれない者はさまよう」と言ったそうです。意味がよく分からないけれども、そういうものかもしれないと思っています。なぜなら欺瞞は、人間の経験の主要な一部をなしているからです。絶対に欺かれないというのは、パラノイアだけです。そういうひとはそういうひとで、「さまよう」という宿命を背負います。

こういう詐欺まがいのことばかり経験するから、自然と気難しくもなるし、人間不信にもなるし、それこそパラノイア精神病にもなってしまいます。

美しいひとが、自分と友達になりたいとか、ましてや性的な関係を持ちたいとかいうことは、絶対にありえない。もしそういうことをいって近付いてくるひとがいたら、必ず詐欺である」という信念が自動的に強化されてしまいます。

もしかしたら、彼氏のことだけは信じられるし、安心できるのかもしれません。もうすこし頻繁に会っていただけたら、うれしいのですが。

さて、この程度の騙しのテクニックで騙されると思われてしまうとは、私も随分甘く見られたものですね。寂しい人間だから、致し方がないのでしょう。苦しいとき、困っているとき、寂しいときに、甘い言葉で近付いてくる人間に、ろくなひとはいません。ほぼ詐欺師です。