杉田さんへの手紙

『フリーターにとって「自由」とは何か』、拝読しました。感想を私のブログで書いたので、ご覧いただいたかもしれませんが、私も「文章」のレベル(「内容」のではなく)に疑問を感じました。ただそれは、難解とかそういうことではなく、形容とか修辞が余り良くない意味で「文学的」な臭みを放っていると感じた、という意味です。杉田さんが『WEB重力』で公表されている夏目漱石村上春樹論(難解なので理解できたとは言えませんが)には文体の強度があったと思いますが、フリーター論には、それを感じませんでした。

ともあれ、御著書から多くを教えられたことは確かです。私は無知に過ぎる。JUNKについて、(擬似)存在論的な(空疎な)思弁を弄しても、フリーター・ニートは救われず、ただ現在の絶望に捨て置かれるのみです。フリーター・ニート「問題」を実践的に解決するための「技術的」な工夫の必要を痛感します。

組合費が払えずにフリーター労組は辞めましたが、PAFFは続けています。「テロリストは誰? 九条の会」という団体でも、フリーター・ニート「問題」に取り組んでいます。杉田さんにも、是非それらのアソシエーションに御参加いただき、共に闘いたいと思うのですが、如何でしょうか。

また、「アソシエーショニストの広場」も継続しています。こちらでも、鈴木健太郎氏などが中心となってフリーター問題リンク集を作ろうと企画中です。

━━いずれにぜよ、フリーター・ニート問題は、今のこの資本主義の現実の問題です。かれら=私達はその問いを逃れられない。NAMの失敗も、実際の資本主義がフレキシブルな労働力を望むようになってきていたにも関わらず、自立した個人=サラリーマン(賃労働者)中心にやろうとしたことの路線上の誤りが大きいのではないか、と考えています。かれら=私達JUNKに必要不可避なのは、資本の側からすれば「排除」すべき「使い道のない過剰人口」(酒井隆史『自由論』)であり、労働の側からすれば「労働のエートス」(すが秀実『JUNKの逆襲』)が崩壊している、そんな存在たちのマイナーな自立運動を開始することだと思います。杉原正浩さんは、マルクスの価値形態論に触れて、「商品や貨幣が立ちあらわれない領域が確かに存在する」と述べた上で、「本質的に貨幣価値とは無縁なそのような領域において果たして快楽とでも呼べるような自己再生産活動が存在しうるのか? より正確にいえば、貨幣−商品の連鎖に組み込まれるとは限らない生存様式が広く快楽をもって受け入れられることがありうるのか?」と問うています。JUNKの問いとも無縁ではない問いです。仮に杉原正浩さんの言が正しいとすれば、そのような「自己再生産活動」は、「快楽」であるとともに「反資本主義」の理念を持ってもいるはずです。そのような活動を始めることができるならば、かれら=私達JUNKのサヴァイヴァルも可能になるはずです。ともかく、生を実験に変えましょう。死という究極の「サボタージュ」を選ぶのは、可能な実験をし尽くしてから、「快楽」を味わい尽くしてからでも遅くはありません。

よければ、一度連絡をください。待っています。

チョコレート

mixi、よっこさんの日記で知った情報です。

http://www.ochanoma.info/sc_choco.html

アムネステイ・インターナショナルのバレンタインデー・アクション
「西アフリカの児童労働によるチョコレートにNO!を」
http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=165
    子どもを働かせて作った
     チョコレート、
     あなたは食べますか?

不採用通知

mixiのもともと本業だったFind Jobで応募してみた。そのうち一社から、不採用通知が来た。もう一社は、正社員はヘルパー二級の資格が必要で、アルバイトなら資格は要らないのでアルバイトから始めませんかと言われて、断わった。

攝津 様

この度は、弊社にご応募いただきありがとうございました。

さて、お送りいただいた情報をもとに、社内で慎重に検討いたしましたが、誠に残念ながら貴意に添えない結果となりました。

何卒ご了承くださいますようお願いいたします。

末筆になりますが、攝津様の今後益々のご活躍をお祈り申し上げます。

************株式会社
人事部 採用担当

現実主義のすすめ

経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか

経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか

p45-47

 「とにかく、この二十世紀の歴史の記録は、一つの現実です。
 これから安全保障の政策を考えるとき、私は現実主義をすすめたい。特に安全保障を考えた場合、現実主義者になりたいのです。夢のようなことではなく、現実的に安全な世界を作らないと意味がないからです。そのための第一歩はまず現実を見ることです。何が現実かというと、この場合は歴史の記録が第一のものでしょう。
 百年間、やってみたわけです。国家に人を殺す許可を与えた結果、その許可を使って、国家はこれだけの人を殺した。考えてみれば当たり前かもしれない。「殺していい」と国民が言ったから国家はたくさん殺した、というわけです。その歴史を認め、考え直すのが本当の現実主義ではないか。
 別の言い方でいうと、今の日本のいわゆる「現実主義」の政治家が、軍事力を持たなければ安全保障はできない、軍事力を持っていたほうが社会の安全は守られると言っているけれども、でもその根拠はどこにあるのか? 証拠は? と聞きたいのです。頭のなかの話ではなく、ホッブスの本を持ち出すのでもなく、歴史の記録にある証拠はどこにあるか、ということを聞きたい。その証拠を見せてほしい。
 日本の歴史で考えてみましょう。日本政府はいつ一番軍事力を持っていたのか。軍事的にもっとも強かった時代は何年から何年までか。そして暴力によって殺された日本国民の数が一番多かったのはいつか。まったく同じ時代です。そういうことを考えるのが現実主義ではないだろうか。今度は大丈夫だ、という根拠はどこにあるのか。
 その文脈のなかで考えれば、日本国憲法第九条はロマン主義ではなく、ひじょうに現実主義的な提案だったと私は思います。それを考えたのはマッカーサーと幣原だと言われていますが、マッカーサーと幣原はアナキストではないし、ユートピア主義者でもない。とても現実主義的な政治家、あるいは軍人であった。
 二人とも、一九四五年の日本の現実を見て、判断したのではないでしょうか。彼らが第九条を考えたのは、世界がまさに核の時代に入った時であり、場所でした。いつ? 一九四五年。どこで? 日本。彼らはその時、その場所で第九条を考えた。広島や長崎まで行かなくても、あの時の東京を見るだけで分かった。この時代に、国家の軍事力だけで国民の命を守ることは、もう不可能だということ。軍事力をたくさん持っても、こうなる、これはひどいと思ったのではないか。マッカーサー職業軍人であったからこそ、東京を見ても分かるはずだった。その時の破壊の規模の現実に基づいて、第九条は書かれたのではないかと思います。
 ところが、マッカーサー自身、それをすぐ忘れてしまった。すぐ普通の「常識」に戻ったわけです。朝鮮戦争に行ったりして、以前の論理に戻った。もし憲法が一年間後回しになっていたとしたら、第九条はなかっただろうと思う。だから、日本国憲法ができた歴史的瞬間というのは、ひじょうに重要だと思います。その瞬間、見えたことなのです。一年経って、マッカーサーは普通の考え方に戻ったけれども、遅かった。もう憲法はできていたのです。できてしまえば取り消せない。そう簡単に変えることはできない。第九条はそういう存在だと思うのです。