「言わないだけです」

ここ最近の『美味しんぼ』騒動だが、ぼくは専門家の見解「だけ」を信用する。専門家といってもいろいろいるが、権威ある主流の見解、社会に広く受け入れられた見解「だけ」である。自然科学分野には全く疎い素人だという自覚があるので、そういうことにして専門家様に丸投げしているわけで、これはもう大日本帝国臣民と申し上げて遜色のない権威主義的パーソナリティである。ぼくも今日から(いや、ずっと以前から?)ファシストというよりもそれを準備する「社会の草の根の下士官上等兵」(年商1億には程遠いので後者かな?)だということかな。それは素晴らしいので胸を張ることにしやう。

それはそうと、作中で井戸川克隆前双葉町町長に擬せられた登場人物が口にする「言わないだけです」という科白がどうも印象に残った。福島では鼻血ブーな人は沢山いるが、まあ、集団主義とかムラ社会村八分といわれる日本社会だけあってそれを口にできない。白眼視され迫害されるからということで、「言わないだけです」と。そうして福島を訪れた主人公たちが慄然とした表情を見せる、というそれですが──。

漫画そのものや物語構成上の問題は東浩紀氏や伊藤剛氏などこれまた専門家の先生方があれこれ指摘されているので、そこにも触れなくていいのだろう。そうすると何が残るのかといえば、次のような極めてダークな、闇そのものと申し上げてもいい光景。

ぼくの思考というか想像はつねに『ケイゾク』に立ち戻っていくのだが、昨今かしましい、というかもう「うるせえよ?」と言いたくなる「○○の真実」だが、「真実」というものはそれが闇に葬られたら誰も知ることができないということが含まれている。『ケイゾク』で渡部篤郎中谷美紀(いずれも俳優名、役名ではない)が暗い映画館のなかで語る科白。日本で未解決の失踪や行方不明はこれだけある。そのなかのこれこれのパーセンテージが殺されていたとしても、それは明るみに出ない。最も確実な完全犯罪の方法は、誰も知らないところで誰も知らない(自分と接点がない)人物を殺害し、誰も知らない山中に埋めることだ、と渡部は言う。そうすればその「真実」は闇から闇に葬られて、二度と明るみに出ない。渡部は中谷(=柴田純)に「だからバカなことをせずに逃げなさい」と諄々と説くわけだが、さて。

もう一つだが、これまた15年くらいずーっと申し上げている「スイープ」という架空組織な。警察の。朝倉が摩り替わった(摩り替わったですよ! 摩り替わった)早乙女(野口五郎西城秀樹かどっちだっけな)の命令で動く「スイープ」は、警察のスキャンダルということで「消す」指令が出た渡部・中谷を追うが、その過程で「副次的被害」というか、彼らを逃がそうとした人々も殺害してしまう。泉谷しげるが扮した叩き上げの刑事。彼が病院から出した車は「スイープ」の注意を惹きつけるためのフェイクでありダミーだった。そこには中谷は乗っていなかった。彼女は「あやさん」の乗る別の車で・・・。

「スイープ」の一団は、泉谷=壷坂刑事に車の後部トランクを開けるように言うが、彼は拒否する。そこで彼らはそれを蜂の巣にするが、出てきたのはなんとスイカの山・・・。弾丸を受け瀕死の壷坂の「バカ野郎」という嘲弄に、彼らはとどめの一斉射撃で応える。

──ということだが、『ケイゾク』のその後の2時間特別ドラマ続編とか映画版では、壷坂や「あやさん」が喰らった弾丸は実はニセモノで、死んだと思われていた彼らは全員生きていたという「なんだそりゃ」な設定になっているが、この物語全体が荒唐無稽な空想なのだとしても、このことにはとりわけ説得力やリアリティがないだろう。一度あれほど決定的な仕方で死んだ連中が「実は生きてました」と笑顔で戻ってきても、「なんだかなー」という虚しい気持ちしかない。それはそうなのだが、大喜利の大先生である烏賀陽弘道先生がおっしゃるように、いまの福島のリアルを直視するならばフィクションになど一切関わりたくない(どの口で?)とかおっしゃる皆さんにはぼくのつまらない話なんかお読みいただかなくて結構です。では、また。