「御花畑」と言いたくはないが

御花畑とか念仏とか宗教とかカルトなんて言いたくはないが、どうしてもそう申し上げたい衝動に駆られてしまうことがある。

憲法九条にノーベル平和賞をという運動がある。そのこと自体については別に何の感想もないが、それに関連してテレビで喋言った女性が、アフガニスタンだかシリアだかの悲惨な内戦やそこにおける読み書きリテラシー識字率の低さと比べて、日本の読み書き能力の普及率の高さは憲法九条のお蔭だと言ったとか何だとかで、本当に魂消たというかびっくらこいた。

護憲派リベラルは「すべて憲法九条が悪いと思っています」という橋下徹の短絡を嘲笑する。だが莫迦にしる資格があるのかね。因果関係や現実検討におけるこのルーズさには天を仰ぐしかない。

私は一々ソースや資料を添付しないが、嘘や出鱈目は書かないので自分で調べて欲しいが、日本国憲法制定時、共産党はそもそも九条に反対だった。人民軍の創設を主張してね。非共産党系左翼の大物の荒畑寒村も反対だった。自由主義者石橋湛山も、九条の恒久平和の理念は理念として掲げつつも、当面は現実的漸進という意見だった。

戦争放棄の条文を入れざるを得なかったのは、連合国へのボロボロな敗戦という圧倒的なリアリティがあったためだろう。それと当時の微妙な国際情勢。そういう中で僥倖で実現されたし、また不満を抱く勢力がいてもそうせざるを得なかったというようなものを、世界との約束だとか契約だとか宣言だなどと胸を張る趣味はありませんね。

よく存じ上げないが、元岡田猫さんなどの左派は九条があっても、戦後、アメリカの戦争への支援を防げなかった現実を直視すべしとおっしゃっている。正論なのかもしれないが、アメリカの、また日本の帝国主義なり覇権主義などについての議論はここではしない。

田中美知太郎というプラトンを翻訳して研究していた哲学者がいてね。空襲で顔面に大火傷を負ったが、戦前戦中は京都学派に、戦後は左翼に反対だった。保守派の論客だったわけだが、「もし憲法で禁止すれば戦争がなくなるというのなら、颱風は来るなと書けばいいだろう」という皮肉を書いている。颱風などの自然災害、天災と戦争のような人為的なものは違うと誰でもツッコミたくなるだろう。だが、そういうことではないのだ。戦後の小林秀雄の「俺は馬鹿だから反省なんかしない。利口な奴はたんと反省するがいい」といった暴言と同じく、調子が良過ぎるお目出度い連中への憤懣憤激が言わせた言葉だと読むべきなのだ。

だってそうだろう。今だって同じじゃないか。違いますか?