吉本花田論争

朝ネットに少し腹を立てて、吉本花田論争を読み返してみたが、きっかけは瑣末なことである。安保闘争のときに吉本が機動隊の催涙弾から逃げて、うっかり警視庁に迷い込み逮捕された。釈放されて、当然だが警視庁の「正門」から出て来たが、そのことを花田から諷刺詩で揶揄されてブチ切れたというものだが、私が読み返したのは後年の大和書房の『重層的な非決定へ』に入っている資料だが、80年代に大岡昇平埴谷雄高の対談だか対話で蒸し返されて再燃したものだが、まあ文学者のお年寄りってのは……。あれはケチの付け方が面白いね。警視庁の正門から出て来たから警視庁のスパイだなんて。なんてのは言われたほうはたまったもんじゃないだろう。

吉本というのは真面目な人だが、日本近代文学的な憎悪と怨恨の人で、一旦激情に駆られるともうダメだ、見境がないという柄谷の評は当たっている。他方花田はそういう内面性ではないもっと開かれて多様なものを持っていたが、それがサタイア、諷刺詩などに発揮されたわけだが、別に乾いた合理精神とか理数系の科学精神とかではない。これは詩人同士の陰湿な抗争なのである。吉本サイドもブチ切れると、戦時中の花田の東方会との絡みなどを「転向ファシスト」とひたすら言い募った。『復興期の精神』だったかの何かのエッセイが生産力主義だからやはりファシストだとか。

我々はどっちもどっちというか、確かに人を根拠もなく警察のスパイ呼ばわりするのは面白くもなんともなく失礼だが、他方戦争中の困難な時代の身の処し方を、正当なものかどうかも定かではない後続世代の被害者感情から告発糾弾する身振りも不毛だと思うところである。だがしかし、出来事から半世紀以上も経過した現在の我々ならばということで、例えば現在、例えば赤木智弘氏の一見過激な修辞や立論への毀誉褒貶を眺めると、人間性は変わらないと思う。

さて、これは詩人や文学者、または知識人同士のということだが、そういうわけでそうではない人々や科学者の問題ではない。私は最近話題の小保方さんの疑惑を考えてみたが、もしこれが科学だったら、誰かある人の仮説や発見が疑わしいと思えば、検証や反証、追試がなされる。科学というのはそういうものだと思うが、私は科学に詳しい専門家でないから検証なのか反証なのか、または力関係なのかというところには踏み込まない。要するにギロン以外の動かし難い何かで決まらないかということである。

そこにくると反被曝、矢部史郎さんなどは曖昧である。矢部さんは近著の『放射能を食えというならそんな社会はいらない ゼロベクレル派宣言』で放射能の問題はザッハリッヒに計測と数字の問題だけである。余計な感情や情念、下らないギロンは不要だと述べているが、矢部さんたち自身がその言葉を裏切っている喜劇は悲惨である。

放射能を巡る問題には専門家たちの間でさえも決着のついていない事柄も含まれるが、一般的な数字やデータや報道からある程度わかっていることもあるわけだ。菊池誠さんが紹介していたが、放射線量、空間線量だけでいえば、東京はむしろ福岡よりも低い。とすれば、放射能被曝リスクを忌避して関西以西へ移住という行動の合理性には疑問符がつくわけである。また、福島での奇形児の出生も統計的に有意に増えていないという。

私自身はそれらの一般的なデータや報道をおおよそそうだろうと思って暫定的に信用しているが、権力やマスコミに無批判に迎合するお人好しだろうか。別にそう思われても構いませんが、震災以降ものすごく警戒的になりましたよ。権力よりは権力を批判すると称する皆さんの煽動のほうにね。