バックハウス・ブラームス・リサイタル

食事を終えて入浴中『バックハウスブラームス・リサイタル』を聴く。風呂から出てきてまた同じCDを頭から聴いているが、風呂場の窓から外を眺めると雨は止んでいる。配達の続きに行こうか迷うが、少し休んでからのことにする。

さて、2ちゃんねるの《男色スパルタクス・攝津正をしばき隊》君のことだが、私が杉原さんを想い出したのは、もちろん彼である確証などないわけだが、彼は彼でもともと真面目に取り組んでいたことがなにかあったわけだろう。柄谷のNAMなどはまあ遊びだったわけだが、いつしか《真剣な遊び》になってしまった。その柄谷が政治的ロマン主義アイロニーとの関連でしばしば引用するフロイトの言葉ーー《戯れの反対は真面目ではない。現実だ》というものがまさに該当する。

そんなものに、また今のネットに真剣になろうとなるまいと無意味なのである。私は現実のなにかと関係ないのに美しい主体性や人間性、原理原則なんぞを固守してなんになるのかと思う。そんなものはただ単なる自己満足だ。

昨日はスパルタクス君ではなく別のもっと頭の悪い、そうしてまともな論理もなく文章も書けないバカが匿名掲示板で攻撃を仕掛けてきた。私は大体関連がわかるのだが、そういう知能の低い連中は私の板垣英憲小沢一郎への揶揄、また反被曝への揶揄に苛立っている小沢派の放射脳である可能性が高い。そういうヤツらは私に苛立ち憤るが、それをまともな言葉と理屈で言う能力はないので、船橋の井戸水の放射能を云々しながら新宿での活動がどうのといった矛盾や自己撞着を平気で犯す。

他方スパルタクス君などの意識はインテリ活動家の遊びである。そういう連中は、私がインターナショナルの歌とか、また野間易通の合成写真その他を嘲弄することに憤るインテリ左翼である可能性が高いと思うがーーだがしかしだ。

仮にそうなのだとしても君らのその美しい(私はそう思わないが)思想信条と実際にやっているその行為の愚劣の齟齬は何だろうか。私は君らの言っていることややっていることに一切意義や価値を認めない。尻尾を掴ませないようにあれこれ仮装しても無駄である。君らには君らなりのなにか真剣な情熱があり、しかしそれはあからさまに語ってしまえば無意味である。無価値だ。だがしかし、私の揶揄や嘲弄には憤るし許せないので、これは遊びだ、戯れだという顔をしてそういうことを書いてくる。

しかし、そこにおいてそのもともとの理想も情熱も、理念も思想も、もっとなにか大きな目的もクソも全部死んでいる。今残っているのは、そういうことを盛んに仕掛けてくる君らはクズでありゴミだということだけである。君らが、例えば今日のスパルタクス君が多少知的にレベルが高かろうと何だろうと変わらない。昨日の頭の悪いバカとそういう連中は一切変わらない。ただ単なるクズ野郎である。私はそう確信する。