夢日記

Claude Williamson Trio "Live in Tokyo 1994"を聴く。午前2時頃に目が醒めたが、今日も奇妙な夢を見た。夢の中で私は大学時代のサークルの先輩と話をしている。その先輩は理知的な人だが、話題が年末年始のことに及び、初詣でだか何かのことになると、彼は○日(元旦からズレたその十数日前か後)に靖国神社に行きたいと言う。そうして驚くほど右翼的な思想を縷々展開する。……夢はそこから選挙運動だかデモだかに変わっていく。そういう感じだった。夢はいつもモノトーン、モノクロームである。色彩がないというよりは、雰囲気や気分、感情が……どういえばいいのか、くすんだというか沈んだ感じ……結構いつも夢を見て、だがしかしこのところ最近はそれを想い出して書き留めることもしないのだ。

目が醒めてから鼻水が止まらないが、風邪なのか花粉症なのか……昨晩から随分くしゃみや咳も出て苦しい。ここ数日は冬の寒さも和らぎ、春の訪れを感じさせる暖かさだが、陽の照る屋外に比べて室内、店内はまだ寒い。そこで何時間もタウン紙のチラシ折り込みをやっていたから、風邪を引いたのかもしれない。または地元の図書館に自転車を飛ばした時の感触では、もうかなり暖かくなった陽気で花粉が沢山舞い始めたのかもしれない。この体のだるさ、鼻のむず痒さには憶えがある。花粉症だってこれまで随分やってきたから……。風邪でも花粉症でもどちらでもいいが(診断には興味ない)、今日も6時か7時からそのタウン紙の配達に鎌ケ谷まで行かなければならない。というのは11時だか午後からだか雨の予報だからで……今週はこれから何日も雨なのだという。タウン紙の配達が終わったらメール便の配達。あれやこれや仕事は多い。それも終わったら、二和向台駅の向かいにある船橋市北図書館は月末図書整理日で休館なので、松戸市立図書館本館か千葉県立西武図書館に行ってこようと思うが。またはWebであれこれ検索して予約とか。こういうことしか思い付かないし、やりたいこともないのである。たまには遊びにというか、飲みに行こうかなともたまに思うが、酒も飲めないし。

昨日ちょっと文句を書いたいたずら電話、無言電話だが、昨日は3回4回あった。当然私は気に入らない。不愉快である。そもそも、私が数日間の不在からネットに戻ったら、匿名で冷やかしの電話。さらに菊池誠の投稿のスクリーンショットを添付してネットの放射能デマについて懸念を述べたら、直後に無言電話。とかだが、タイミングや前後関係、経緯から、かつての知り合いなのかそうでないのか、運動関係者というか、脱原発だか反被曝で、「いのち」が大事であるとかないとか、反・反原発がどうのこうのといった連中の一人ではないかと予想してみた。私の推理や仮説が的外れなら申し訳ないのだが、もし仮にそうであるとすればである。上述のカテゴリーというかクラスタというか、そういう皆さんの間では菊池誠はけしからんという論調をお見掛けすることが多いのでそう勘繰ってもしまうわけだが。

もし仮に私の予想・予測が正しいとすれば、出発点の「いのち」が大切だというのはとりたてて間違いとは言えなくても、その後どこかで何かが間違えているだろう。そもそも菊池の放射能デマへの懸念や警告は反動とか間違いなのだろうか。そうして、仮にそう思うとしても、私が別に何か政府自民党や東電の工作員やスパイなどでないことは誰にでもすぐに分かるはずのことだが、菊池の投稿を紹介して自らの感想を述べてみただけの人間に嫌がらせなどはどうかしている。そう思いませんか。

放射能以外の可能性もあれこれ想定してみたが、いずれも私は自分に非や責めがあるなどとは思わない。例えば、とんでもない貧乏人のくせに結構気楽に愉しそうにやってるのが気に喰わないとかけしからんとか、許せないとか。そんなことを言われましてもね。ネット越しにどう見えるとしても、貧乏人は貧乏人らしく分をわきまえて謙虚に恐縮して小さくなって世の中の片隅で息を潜めていろ、とか言われてもできませんし。不愉快で気に障るかもしれませんがね。すいませんが。いや、すいませんと謝ることじゃないよな。

そうして社会の足を引っ張る(?)みんなの迷惑、お荷物としての貧乏人への蔑視というのは、社会のマジョリティ、保守や右派から広くリベラルや左派にまで行き渡っている偏見である。偏見と決め付けるのはフェアじゃないかもしれないな。偏見かどうかはともかく、そういう見方は広く普及してますよということで、左翼左派の中にもというのは、以前その辺の匿名のネットのついったらーだけでなく、どこぞの革新の市議さんのTweetでも驚くべき意見を読んだことがあるからだ。確かに弱者や困窮者への同情共感などのヒューマニズムと左派左翼なり革新、広義の社会主義は必ずしもイコールではないだろう。それが階級や階層の平等化やハイアラーキーの転倒を目指すものだとすれば、そういう政治・経済的な「俺達」、我々の権利獲得闘争・運動であって、それ以外の甘いセンチメンタルなものではないのだという割り切りも十二分にあり得ることである。そうして私なりの経験や観察からは、世の中を変えたいということを熱心に言ったり、また行動・実践しているらしい人々の間にもとんでもないヤツらは少なからずいる。まあ、例えばキリスト教徒ならキリスト教徒であってもいろいろな人がいるだろうというのと同じで、ある日特定の政治思想・イデオロギーや立場の人々の中にも様々なタイプの人がいるだろうというだけのことだが。それだけのことです。

ライブ・イン・トーキョー・1994

ライブ・イン・トーキョー・1994