雑感

ここ数日多少忙しくしていてブログを更新していなかった。Facebookにはあれこれ書いている。それはそうと、昨日は雑用、仕事の合間に田中美知太郎『ソクラテス』(岩波新書)を少し読み返した。私はいわゆるプラトン主義には何の興味関心もないが、ソクラテス個人には興味がある。そうして田中美知太郎の保守主義、保守思想のことも考えてみた。

今現在もかつても、保守の知識人や言論人には僻みというか被害妄想のようなものがある。ハロルド・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』。最近では伊藤剛氏などだが、アメリカにおいて極右の知識人が排斥されていることそのものが反知性主義であるとか、特に戦後の日本社会において、左翼左派またはリベラルではない者、ノンポリとか右派右翼、保守の人間は知的・知識的と看做されてこなかった、というのである。だがそれは事実に反する。アメリカの論壇事情は知らないが、戦後の日本だったら、保守や右派に疎い私でさえ田中美知太郎や江藤淳を思い付く。彼らが知的でないとか、知識人でないなどとは全く言えないだろう。そうして戦前戦中からの連続性として小林秀雄もいた。田中・江藤・小林だけでなく他に幾らでもいただろう。私は岩波書店朝日新聞に対するアンチを好まないしそういうものに与しないが、そういう権威だけが知識的であったはずがないだろう。現在も同じである。確かに3・11以降脱原発が日本社会における主要なトピック(の一つ)である。だがそれに関与しない、または反・反原発の人間がどうのこうのであるはずがない。政治的立場やイデオロギーはすべてではない。すべてではないどころか全く何ほどのものでもない。そんなものが一体何だろうか。

これは脱原発内部の内紛だが、昨日呆れたことがあった。今東京都知事選の真っ最中だが、脱原発側は宇都宮健児細川護煕に割れている。そうすると脱原発候補の統一を求めたり、または細川を支持する人々も出てくるわけだが、私自身もそうだし、私とFacebook「友達」になっている或る人もそうである。ところが、その人のウォールに突然別の誰かが「上から目線」で介入してきて、運動の原則はこうだから許されないなどと下らない説教を始める。そうして(これも現在のワンパターンだが)園良太ブログを貼り付ける。そういうつまらないことを言われた人々が、あなたは鎌田慧佐高信広瀬隆などの著作を読んだことがおありですか?と問うと、その人物は勿論あると。そうして、私はあなたがたなんかよりずっと読書家ですと言い放ったのだが、それを拝見してバカではないかと思った。

読書家であるとかないとかはこの際関係ないのである。そういうろくでもない、しょうもない教条主義的な原則論を振り回し、さらに他人に強制強要までする。あなたがあれこれ本を読んでいるとか、運動の原則がとか関係ないでしょう。悪いが、本ならば私だって読んでいる。観念的であることに引け目なんか全く感じないが、威張ろうという気持ちもない。当たり前のことでしょう。

私は読書は非常に好きである。そのことが少しも悪いと思わないし、またいわゆる実務的、実際的な連中のことなどは心底大嫌いでとことん軽蔑している。だがしかし、政治を含めた現実にその読書をいきなりそのまま適用することができないのは申し上げるまでもないだろう。上記の園良太君だが、こないだ私がTwitterアルチュセールの新刊情報をRTしたのをさらにRTしていたが、なるほど彼はアルチュセールが好きなのかもしれない。だが、私はとんでもない教条主義というか呆れるしかない意見だと思いますけれどもね。

「類は友を呼ぶ」と申し上げればいいんですか。私はアルチュセールについてのジャック・デリダのインタビューを読んだことがある。デリダは民主主義的左翼というごく常識的な当たり前のものを構築しようとしていたのだが、それに対してアルチュセールはどうだったのか。かつて何かのトピックでデリダアルチュセールに何か言ったというか問い掛けたらしい。そうするとアルチュセールは「共産党が間違えるはずがない」と返答したという。それはもはや、パフォーマンスとかパフォーマティヴな護教論的身振りであるとかないとかいう話ではないだろう。そういうのは後年の、後になっての彼自身かまたは他人による都合の良い意味付けであり再解釈だろう。そういうものは徹頭徹尾ろくでもないとしか申し上げようがないだろう。私はそう確信する。そうして、アルチュセールはそれでもまだ偉いかもしれないが、そのアルチュセールなどに憧れたのか何なのか、そういう最低最悪の態度を自ら反復する連中は一体何なのか。私は怒りを感じる。

話を田中美知太郎や小林秀雄に戻すと、彼らは「近代の超克」などの壮大な、しかし空疎な作り話に熱中する京都学派にも、そこから分かれてかつての師匠筋への批判に向かう左翼哲学者(戸坂潤・三木清)にも批判的であった。親米であるかどうかではなく、まさにそれこそが保守主義の精髄だと私には思える。要するにそういう観念的な構築は空疎ですよということだ。

小林秀雄の戦時中の「國民は黙つて事變に処した」とか「一兵卒として戦ふ」などなどの実存主義というか決断主義というか、そういう一連の発言は暗黙の、そうであるが故に最も悪質な戦争協力プロパガンダだと評されることが多い。だが、私はそうは思わない。戦争に賛成する側であれ反対する側であれ、そういうふうに壮大な理論理念や観念の体系をでっち上げて、日本は、また世界全体の行く末はこうなるなんて下らない漫画に熱中しても致し方ない、完全に無意味だということだ。それは確かにそうだと私も思う。現在もそうだというか、現在こそそうだと確信する。というのは、脱原発ということもそうだが、とりわけ対米追蹤、対米従属、民族自立論などには疑い以外何も感じないからだ。革命などが不可能であることは申し上げるまでもないだろう。実に下らない、バカバカしい話だ。