フランソワのショパン

サンソン・フランソワがソロイストのショパン ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11と第2番 ヘ短調 作品21を聴く。ルイ・フレモー指揮のモンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団の伴奏で録音は1965年である。

Twitter経由で國分功一郎のインタビューだかを読んだが、彼はそこで自らの実感に正直になるべきだ、そうすれば嘘を付かずに済むなどという下らない妄想を垂れ流している。おまけにこのバカによれば、スピノザの直観というのはなんと実感(!)のことらしい。この意見について論評を加えて徹底的に粉砕しておきたい。

このアホはみんながスピノザを読んだことがないとでも思っているのだろうか。スピノザにおける直観知の究極の対象は神であるわけだが、そもそもありもしないものをどうやって実感(失笑)するというのか、このバカには是非説明して貰いたいものだ。できるものならば。だが、絶対にできはしない。なぜならば、神など最初から最後までないからだ。全部この下劣なクズの妄想である。それだけだ。それ以外に何もない。

さらに追加しておきたいが、百歩譲ってスピノザ解釈ではこのマヌケ野郎が正しいとしてみよう。だが、17世紀ならともかく現代では通用しない。國分の下らないスピノザ論ではデカルトにつまらない論難が加えられている。もはや、他者の説得や懐疑というモーメントは必要ないのだという。バカ野郎。そんな妄想を思い込んでハマってるのはお前だけだよ(失笑)。そうして、神の存在は理性がない愚か者以外には自明な事柄で議論する必要がないのか? そんなバカなことがあるはずがないのがどうして分からないのか? それはこのバカが哲学者だという御自覚で(余りの愚劣に吹き出す以外ないが)、ソフィストリベルタンではないからだろう。

だが、おれはさらに追加しておきたいが、スピノザの書簡集にあれこれスピノザを悩ませる商人が出てくる。彼についてドゥルーズは、この商人は頭が悪いのではない、彼の問題は別のところにある。つまり、理解するつもりが最初からない、悪意があるのだといっているが、そこには根本的なテーマがある。つまり、神の存在は自明だとか、何ちゃらは自明だなどと繰り返す哲学者先生(失笑)に、そんなものは分かりませんがという質問や懐疑を突き付けるのは当たり前のことではないのか。悪意というのはそういうことであって、下らない信仰に絶対に同意しない徹底的なソフィズムである。

そうして現代では争点は神などというどうでもいいものではない。それは太宰治風にいえば恋と革命、さらに今では(つまり311以降のエコロジカルな場面では)いのちということだが、おれは自信を持って断言するが、そんなものはありはしないし絶対に不可能である。お前らが夢見るようなものはないし、あり得ないし、これからも絶対にないのだ。お前らには惨めな敗死だけが待っているしそれが相応しい。お前らはすぐに死ぬ。そうして死んだ後も地獄で未来永劫に苦しむのだ。生前の愚かさを贖うために。

こう申し上げると、「だが、地獄もないでしょう?」と賢しらな揚げ足取りが必ず待っている。そんなことは当然だ。だがこういうキチガイやバカ、愚か者連中は幾ら脅かしておいても脅かし過ぎるということはないのだ。

このろくでもない愚か者は森岡正博の愚劣なツイートを誇らしげにリツイートしているが、だがしかし、こういう曲学阿世や腐儒、キチガイ、バカ、マヌケ、クズ野郎、カスの言うことを嘲笑するのは何もアカ=頭のどうかした教条的なサヨクネトウヨだけではない。圧倒的大多数は國分の言うことなど全部下劣な妄想だとすぐに分かるのだよ。分かったか。分かったら今すぐ死ね。バカ野郎。クズ。カスが。何が特定秘密法案採決で怖くなって泣いただ。お前は幼稚園児か小学生か? このクズ野郎。カスが。バカ野郎。お前のようなろくでなしには焚書坑儒こそが唯一相応しい。分かったか。バカ。

ショパン:ピアノ協奏曲第1番&第2番

ショパン:ピアノ協奏曲第1番&第2番