雑感

食事の間4チャンネル(日本テレビ)でニュースを少し見た。面白かったが、『謝罪の王様』という映画が公開されており、日本在住の外国人たちに人気だそうである。彼らにアンケートを取ると、大多数の人が日本人は謝り過ぎだと思っているのだという。

そうしてそういうふうに申し上げると、謝り過ぎというか、ネトウヨ的な(笑)表現では自虐的な、すぐに自分たちを否定してグローバル・スタンダードがいいのだとか、アメリカン・スタンダードという皆さんは、そうだ、アメリカ的な基準にすればいいのだ、と思うかもしれない。だが、そういう簡単な話でもないそうである。

その報道によれば、アメリカ社会ではアメリカ人たちは、謝らないのではなく謝れないのだ。なぜならば、訴訟大国として余りに発達しているから、例えば交通事故の現場、または医療現場で簡単に謝ってしまったら、自分が悪いと非を認めたことになり、訴訟を起こされたり損害賠償を要求されるおそれがあるからだ。

なるほど権利を主張するのはいいことだ。だが、例えば医者と患者の間で、普通ならば当然の人間的なコミュニケーションも許されず、相手のことを慮って発した一言が訴訟の種になるなどは尋常な社会なのか。アメリカ社会では今まさにそれが見直されつつあるのだという。例えば、病院で患者に怪我をさせたりトラブルがあって患者に謝っても法廷で不利にならないという方向の法改革が志向されているという。

それは「アイムソーリー・ルール」というもので、アメリカ51州のうち36州で既に採用され、ニューヨーク州も導入を検討しているそうですが、例えば交通事故の現場などで相手に謝っても直ちに法廷で不利な証拠として採用しないというようなことである。なるほどと思ったが、別に日本社会とアメリカ社会のどちらがいいのかということではなく、常識的な中庸がいいという気がする。

ということで僕は思ったが、日本社会の特にネット社会はアメリカ型に近付いているのではないだろうか? 朝くらいに見掛けたツイートだが、どうして、インターネットでは人は謝れないのか? 答えは簡単だ。一旦非を認めて謝罪するやいなや、無数の有象無象のネットイナゴが殺到してきてボロクソに吊るし上げられるからだ。

というのだが、佐々木俊尚氏の関係だか何だか知りませんが、集合知だとかキュレーションなどと言いながら、ちょっと批判されたらネットイナゴなどと開き直る醜悪などうのこうのと糾弾というか嘲笑というか、滅茶苦茶にやっつけられていて、どう申し上げればいいのか、皮肉なことにというか、まさにあなたがたのその行為が先ほどの発言の正当性をパフォーマティヴに実証してしまっていますよと思った。佐々木氏はツイートを拝見する限り保守寄りの意見が多いようだが、まあ人間イデオロギーだけではないと思うのは僕だけだろうか。