雑感

リヒャルト・シュトラウス『4つの最後の歌』を聴く。ジェシー・ノーマン(ソプラノ)、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、指揮:クルト・マズア。1982年6月1−4日、ライプツィヒでの録音である。ライナーノーツは門馬直美という人だが、それを読むと1948年に作曲されたもののようで、シュトラウスは翌年の49年に他界している。

毎朝の日課として2ちゃんねるの揶揄や罵倒、中傷をチェックするが、毎度厭な気分になる。もうほとんどテンプレートのように、早稲田大学への入学、入試がカンニングであるとか、迷惑系デブとか、文章が盗作である、UstreamYouTubeを見るヤツが誰もいないなどなどと延々と書き連ねている。思わず苦笑するだけだと申し上げたいが、僕はそこまで寛容な人間ではない。当たり前だが立腹するし、やり返したいと思うが、何しろ顔が見えないので。そうはいっても、昔から僕のことを知っているヤツも混じっているだろうし、そいつはまあNAMだか何だか、文学クラスタというか批評クラスタというか思想クラスタというか、よく知りませんが、僕が10年前に書いたポエムかなんかをいまだに取り上げて散々に嘲笑しているのだが、そういうものも別にネットから削除していないし探せばどこかにあるだろうが、別に恥ずかしいとも思わなければ打撃だとも思いませんね。ですから批評というか論評や感想は自由です。自由ですが、僕は一切関係ないのだということ。

ということで、昨日音楽についてFacebookで書いたように、文章というか何かを書くということにおいても、もはや一切の思惑(他人の思惑)などを無視することにしよう。そういうことでまずテーマというか書こうと思ったのはこのことである。《生存は無意味にして苦痛なり》。

これは何だと思いますか? 《生存は無意味にして苦痛なり》というのは。それはゼロ年代のいつくらいか、半ばくらいだったかな。僕が早稲田のあかねに出入りしていた頃に真哲君と会話して、攝津さんの思想というか考え方を教えて下さいというからそう答えたのだが、彼は大変不満そうであった。そんなものは下らないというのだ。なるほど大した意見ではないことは認めるが、ではどういう意見というか言葉だったら立派なのだろうかということで、例えばヘーゲル哲学を研究して、私はヘーゲリアンなのだといえば素晴らしい、本物の哲学者というか哲学徒だという話になるのでしょうか?

そりゃそうかもしれないし、哲学なり思想と人生訓とかポエムは違うだろう。違うだろうが、どこが違うのだろうとも思う。僕はいつものように率直に意見や感想を述べただけである。それが素朴であるとか稚拙である、洗練されていない、様々な陰影や屈折などの高度に精緻な表現もないなどは知ったことではないのである。僕はあなたの思想というか考え方は何ですかと問われたから率直な答えを申し上げただけである。

そうして《生存は無意味にして苦痛》というだけのことは非常にありふれた厭世観、ペシミズムだから、確かにつまらない意見だということで結構ですが、もう少し補足的に申し上げれば、それが喜びに満ちた思想や意見であろうとその逆であろうと、人間が何かを考えるようになるのにはきっかけやプロセスや理由があるわけなので、そういう具体的なものを無視しては空疎である。例えば、そういう端的な一言の個人的な背景を少し説明するとこういうことだが、僕は10代というか、中学生、高校生くらいの頃からずっと体調不良というか身体的な苦痛に悩まされてきた。例えば胃が痛いとか頭が痛いとか、腰がとか肩がというそういうことだが、胃潰瘍とかその前段階かもしれないと思って病院に受診するでしょう。そうすると異常はないといわれる。それは結構なことだが、だが、異常が見付からないということはその苦痛というか症状に対処法はないということです。だったら心理的なもの、精神的なものなのか。だが、精神療法的なケアも無効である。さらに、整体であるとか何とか、漢方、東洋医学だとか何だとか、そういうものを試しても無効である。そうすると、その苦痛は端的に意味を欠いてただそうあるものとして受け入れるしかない。そうして時間の経過や慣れと共によくわかってくるが、そういう苦痛は生命を脅かすような重篤なものでは全くない。主観的にはどう思おうと、生命や健康(身体的な維持)には関係がないのである。そうするとそれもいいことなのではないかとも思うが、そうしますと、その苦痛には終わりがないのだということでもある。

僕が申し上げたことにはおおよそそういう背景があったわけだし、そうしますと、キェルケゴールは絶望とは死に至る病である、そうして死に至る病とは死ぬことができないという病であると書いている。キェルケゴールが言っているのは心理的、または思想的(実存的)な問題であり、またキリスト教という文脈のもとで提出されている。だからそれとは関係がないのだが、主観的にはどうであれ、客観的には、つまり身体的には死ぬことは絶対にない心気症とかヒステリー症状(これは今日の通俗的な意味ではなく、そもそもの19世紀終わりとか1900年前後のフロイトの正確な意味でのそれである)について類似のことを省察せざるにはいられない。

それからもう少し別の話題について書きたいと思った。僕は小学校を大分県で卒業すると船橋に引っ越して来て七林中学校に通ったが、まあそれなりに普通に中学生生活を送っていたが、Oさんという女子と少々仲良くなった。仲良くなったのですが、当時はただ単に仲が良いということと恋愛というようなことは全く考えていなかった。それだけでなく、同性愛/異性愛というようなセクシュアリティについても全くわからなかった。

そうして何人かの同級生の男子、T君とかY君のことも気になり出したが、そうするとそういう子たちはクラスの不良っぽい男子たちからおかまとかいっていじめられていた。僕は20年以上前の情景もよく覚えているのだが、例えばT君だったら、中学校ではみんなで合唱をするでしょう。我々もするわけだが、彼は非常に音痴で、みんなで合唱をすると音程をかなり外していて、しかも大きな声で歌うから非常に目立つというようなことだ。

Y君は隣りのクラスだったと思うが、技術科の時間に野球部のS君から生意気だとか何とかいわれて詰められていたことを覚えている。そうして卒業後S君やN君など野球部のちょいワルと再会したということもあっただろうか。正確に申し上げればNとは再会はしていない。

もう少しお話ししますと、中学校の同級生で野球部の主将だったI君は本当に輝くような僕らの憧れだった。本当にヒーローだったわけだが、なぜならば、勉強もクラスでトップだし、運動、部活動のほうも野球部の主将を務めるというくらいの万能人間だったのである。性格も明るく陽性である。人間はすべてを持っているということがあるのだ。

そうして中学校を出ると彼は県立千葉高校に、僕は県立津田沼高校に進んだ。千葉高等学校というのは地域のトップ校ですよ。だから良かったのだが、高校に入って一度だけ彼と会う機会があったが、彼はひどく落ち込んでいた。なぜなのか。千葉高校は千葉県内ではトップクラスの進学校です。そうしますと、当たり前だが県内から優秀な生徒が全員集まってくる。そのなかで相対化されてしまい、もはや中学校のときのような絶対的な優位を保てなくなったという意味です。そういうわけで彼は悩んでいたというか、悩んではいなかったかもしれないが、非常に沈んで落ち込んだ様子だった。それから二度と会ってないが、千葉高校を出て千葉大学に進んだという消息を耳にして以来音沙汰もなく、どうしているかもわからない。

S君は都内の、代々木かどっかのオリンピックセンターで偶然再会した。僕は何かの催しに行ったのだが、S君はそういうことに関心があるタイプではない。青年の活動とか何とかそっち系だが、彼から名刺を貰ったのを覚えているが、すぐになくしてしまったし、やはり連絡も取らなかった。僕は中学生の頃から印象が変わったなと少し思った。だが、そのままにした。

N君はガキ大将だったわけだが、ゼロ年代のいつか忘れたが、いつだったっけ。飲食店をオープンしたから遊びに来ないかと電話があった。僕は適当に返事をしておいたが、結局行っていない。まあそういうことですよ。