雑感

偏屈な内容を偏屈な文体で失礼していますが、旧仮名遣いも旧字体も適当で出鱈目なんだよね。教養がないので。それはそうと、レスター・ヤングの次は与世山澄子の『インターリュード』を聴いた。2005年の録音かな。そうして今はサラ・ヴォーンの『デューク・エリントン・ソング・ブック Vol.1』を聴いている。録音はライナーノーツを見ると1979年だね。細かいどうでもいいことだが、前から「ライナーノーツ」と「ライナーノート」のどっちが正しいのかよく考え込んでいる。"natural law"と"natural laws"で意味が違うのと同じだね。同じじゃないかもしれないが、似ている。単数形か複数形かで、「自然法」なのか「自然法則」なのか意味が違ってくるんだった。どっちがどっちだったか忘れた。ライナーノーツとライナーノートではなくてそちらのほうはあれこれ意味深いと思うが。

ジャズは母親と二人で聴いているが、与世山澄子にもサラ・ヴォーンにも母親は大変喜んでいる。こういう僕のブログやネット書き込みには父親が全く出てこないではないかと云う人がいるだろうが、父親は(多少具合が悪いとはいえ)別に元気に暮らしてますよ。今も部屋にやってきた。だけど音楽の趣味も違うし、彼はジャズもクラシックもポップスも嫌いで演歌が好きなんだけれど、だからそういうことですし。今は、もう9月11日で秋だから僕らは寒いくらいなのだが、彼は「寒い」と云っている。何か冷や汗を掻いているとか何とか、体調が悪いのかもしれないが、だったら病院に行ってほしいが、医者を信用していないとかで行かないのである。困ったものだ。そうして少し前はやはり部屋にやってきて、どうしたのか訊いてみたら、歯が痛いとか頭が痛いなどと云っていた。これも歯医者に行って欲しいのだが。反被曝の人がおっしゃるような放射能被曝の症状なんかじゃないと思うぞ(笑)。大体どんなことでも「悪者探し」に意味はないことが多いのだ。今出てきている症状に対応することが大事であって、それ以外ではないでしょう。確かめることもできないようなことだったらそれこそ穿鑿してもしょうがないのでは? というと、あれこれ歴史に詳しいうるさ型が揃っているだろう脱原発/反原発の皆さんから、やれ、水俣病がどうのこうの、過去の事例がどうのこうのと総攻撃、総スカンを喰いそうだが、そういうことで申し上げればね。事実・史実でなくてすいませんが、『おろち』、楳図かずおのね。それに出て来たよ。工場の廃液・排水で町が汚染されている。それを告発しようとした一家が圧力に屈せずに勇気ある告発をするが、町の人々の冷たい視線に堪え切れず町を去るという物語がね。

そうして小説などのフィクションばかりで恐縮だが、井伏鱒二の『黒い雨』(新潮文庫)の書き出しも思い出さざるを得ない。河上徹太郎の解説「『黒い雨』について」によれば、これは野間文芸賞昭和41年度受賞作品であるということだ。雑誌『新潮』に昭和40年1月号から同41年9月号まで連載されたものだという。

その書き出しはこうである。

《この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないような気持であった。二重にも三重にも負目を引受けているようなものである。理由は、矢須子の縁が遠いという簡単なような事情だが、戦争末期、矢須子は女子徴用で広島市の第二中学校奉仕隊の炊事部に勤務していたという噂を立てられて、広島から40何里東方の小畠村の人たちは、矢須子が原爆病患者だと云っている。患者であることを重松夫妻が秘し隠していると云っている。だから縁遠い。近所へ縁談の聞き合せに来る人も、この噂を聞いては一も二もなく逃げ腰になって話を切りあげてしまう。》(5ページ)

そうするとこれはいわゆる「風評被害」とか根拠がない差別・偏見を描いた小説なのか。そうではない。矢須子は「黒い雨」に打たれ、原爆症を発症するのである。この『黒い雨』には元になった実在のどなたかの日記が確かあったはずだが、今この小説を読み返しながらどうにも暗い気分にならざるを得なかった。それから樋口健二氏という60歳か70歳くらいの写真家の方の被曝労働や原発作業員の被曝由来が疑われる様々な障害や疾患・疾病を描いたルポルタージュなども思い出さざるを得なかった。それから、確か佐高信だったと思うが……彼が書いていた、低線量被曝の健康被害、健康への影響についての論文だか何かのことも。だが、僕は3.11以降最初に佐高を読んだときには、それが恐らく真実であり事実だろうと決めて掛かってしまっていた。今現在は多少懐疑的である。というのは、低線量被曝の健康への影響、健康被害は現在のところまだ余り解明されていない、確かなことはわかっていないのではないか、というふうに(佐高以外もあれこれ読むうちに)思えてきたからである。

僕は図書館で読んでいますので、手元に本はないが、そういう本の読書のことを思い出しながら、原発作業員、原発の被曝労働者の病気や障害であるとか、それが病院や大学で中々被曝との因果関係を認められない実態とか。裁判をしても敗訴する場合が多いとか。そういうことも思い出さざるを得ない。原発作業員の方などのいわゆるぶらぶら病であるとか。がんなどの死に至る重篤な障害ばかりでなく、倦怠感であるとか、様々な心身の……。

さて、上述のことを直ちに3.11以降の、原発作業員・被曝労働者以外の東北や、さらに関東以西の我々にそのまま適用して想像力を逞しくすることが適当でないのは申し上げるまでもない。だがしかし、憂鬱は深まる一方である。致し方がないことだね。