雑感

Monday満ちるの"Optimista"を聴いている。今日は彼女のCDは2枚目である。先程はレッスンを終え、ポスティングから帰って、カウント・ベイシー・アンド・ヒズ・オーケストラの『ウォーム・ブリーズ』を聴いていた。軽く食事を摂って今彼女を聴きながらパソコンに向かっている。

中二病厨二病という表記もあるらしい)と言われそうだが、ですがもう38歳なのですがね。物心ついた頃から、そもそもものを書き始めた頃から、というと小中学生だが。激情に駆られて、憤怒、激怒に、激甚な怒りと憎悪に衝き動かされて書くことが多かったと思う。というかそれが90%以上、大部分だったと思う。それは性格だから変わらないが、まあ40年近く無駄に年齢を重ねてくると、怒りに任せて直截に、ぶっきら棒に書き殴るよりは迂回したり遠回りしたり、アイロニーで仮装したり、様々な罠を設けたり……要するに間接的に暗示するほうがずっと効果的だし近道だと気付くようになる。

ですから今もそうしているのだが、現在も激怒してましてね。激怒するとすぐぶん殴りたくなるが、ネットのアレは目の前にそいつがいないものだから。今読んだのは、Twitterで誰かリベラル左翼?が書いていたネトウヨについて書いていたもので、要するにそいつの意見では、ネトウヨ認知バイアスは生得的なものだから見棄てたほうがいいのだということだった。

ま、勿論そいつがリベラルを代表しているわけではないし、そいつがすべてであるわけでもない。それはそうだが、とんでもない偽善と欺瞞の正体を目の当たりにしたと思った。というのは、そいつが書いていた《彼ら》……僕は最初それは《発達障害》当事者のことだと思ったんだ。だけど違った。前後を見てみたらネトウヨを意味していると分かった。

そうしますとね。保護され救済されるべき他者と遺棄されるべき他者がいることになる。前者は例えば障害者であるとか何とか、マイノリティとかさ。後者は漠然と定義もなく《ネトウヨ》と名指されている。あのですね。《ヘサヨ》が蔑称であるとかないとか騒いでるが、僕の意見ではどっちもどっち、いいとこ勝負、どっちも頭がおかしいのさ。ネトウヨだってまともな定義なんかなかろう。

そして、そいつが漠然と名指していた層に一定程度の認知の歪み、バイアスがあるとして、そいつの仮説(何のことだ?)によればそれは生得的なものだから《見棄てたほうがいい》ことになる。ま、これは許容限度を超えた他者は遺棄するしかないということだが、そういうことでしたら最初からそれを認めて綺麗事なんか一切言わないほうがよろしいね。下らないから。

僕は憎悪や憤怒や激怒、激情、激昂を少しも隠さないのさ。感情剥き出しでありのままだと申し上げてもいいし、論理を強調する割には本能と直感と衝動だけで生きてるね。ネットだろうとリアルだろうと。ルサンチマン、怨恨であるとか僻みであるとか、何だとか嘲られても一向お構いなしだ。そういう声にはこのバカ野郎と怒鳴り返すのだ。断乎として。

僕は科学は嫌いである。だから科学者でも何でもないし、別に科学に定位してないが、こういうものには徹底した罵倒攻撃を加えるのが当たり前である。本当に許せないと思うが、頭が悪いとかトンデモなのは一体どちらであろうか。このマクロンなどと名乗るろくでもないクズ野郎とオレとさ。少なくともマクロンの意見が俺理論というか、「おれの仮説」というか、一切客観性の裏付けなどないものであることは間違いない。

そういうわけで僕なりの意見を幾つか展開してみたいが、まず、読んだ後で2ちゃんねるに匿名で批判ともいえない悪口ばかり投稿するヤツらは最初から読まないでいただきたい。そうは申し上げても読むのを禁止する実効的な方法・手段などないわけだが、とりあえず不愉快だということだけは申し上げておきたい。

そして、これまた空疎であるとか衒学であるとか、中身がないなどと非難されるが、やはりそういうろくでもないことを思うヤツらは読まないでいただきたいが、こう思う。まず、キェルケゴールがどこかで書いていた一文を想い出す。それは書き損じとかインクの染みの話である。ガタリが『精神分析と横断性』で引用していたものだが。キェルケゴールは19世紀だから当然パソコンもワープロもないね。タイプライターもなかっただろう。そうすると何かを書くのは手書きだ。ペンにインクをつけて……。そりゃそうだが、誰でも書き損じをする場合がある。キェルケゴールが言っていたのは、我々は通常書き損じ、書き間違いは消去、抹消して正しく書き直す。だがしかし、その書き損じが《俺は俺だ。消されるのは厭だ》と自己主張したらどうなるのか。彼のいう実存というのはそういうものだということだった。

ガタリのテーマは精神分析だから、そこから書き間違いを含む失策行為についてのフロイトの考察へと論は移っていくが、とりあえずそんなことはどうでもいい。僕が上述の一節から申し上げたかったのは、たとえインクの染みとか書き損じのようなものであろうと、いかに蔑まれレッテルを貼られようと、一旦存在してしまったものは執拗に存続し、容易に消すことはできないのだということで、《抵抗》がどこまでもあるのだ。主体性であるとか意志などはその《抵抗》を意味する。要するに防禦反応というか攻撃というか、自分を否定し抹消しようとする何かに抗い、死闘を繰り広げようという断乎とした、確乎とした意志である。──当たり前だが、僕はそういうものを絶対に肯定するし、自分にとって大事なのはそれしかないのだ。不断の、絶対の反抗であり叛逆だ。といっても、勿論そんな凄い内容なんかないが、とにかく不屈の意志である。──重要なのは、少なくとも僕にとっては、それだけであり、それ以外のものはどうでもよろしい。

さてもう一つは、これもやはりガタリだが、彼が後期、晩年の著作で『労働階級と危険な階級』に言及しながら、パリ・コミューンにおいて鎮圧された労働者について書いていたことだ。彼によれば、そこにおいて生じたのは主観性というか人間類型というか、それの深い変容である。それはブルジョアジーにはもはや統御不能な《悪魔》にさえ見えた……だから殲滅されねばならなかったということなのだが、ここから、本質主義構成主義というような20世紀のどうでもいい(と僕には思える)議論ではなく、次の幾つかの考察に繋がっていく。

一つは、ニーチェが彼の中期の『曙光』でそのアイディアを開陳していたような、《道徳の歴史》──習俗の歴史という考え方である。それは人間類型、或る一定のタイプの生成を意味しているが、20世紀的な枠組みと違うというのは、そこで生物学的要素が優位にあるのか、社会的構成なのかというのは問題にならないのである。

もう一つは、フーコーが19世紀の性と血を巡る優生学的実践について、また20世紀、1930−40年代のナチズムについて述べていたことである。科学であるかのような装いをしながら実際には疑似科学というか政治でしかなかったそれらが意味していたのはどういうことか? ──それは、実際には社会的なもろもろの実践の総体の結果生まれたのかもしれない違いを絶対化・絶対視することだ。そうしてさらに、何も実際には判明していないのに、あたかもそれが生物学的な種、人種であるかのように偽装する──或いはそう信じることだ。

僕が先程拝見した意見から感じたのは上述のような歴史的な経緯であり、そしてリベラルや左翼を自認(自任)しているらしい連中もそういう意見を持っている場合もあるのだということであった。これで今晩の展開は終わりです。では、またね。

https://twitter.com/macron_/status/376279719286550528

マクロン ‏@macron_ 1時間

おれの仮説では彼らの認知特性は生まれつき特殊なものだから、バランスの良い考えに至らせることは不可能なのではないかと考えている。IQが高くて高学歴だからつい期待してしまうのかもしれないけどむしろ見捨てたほうがいい。

https://twitter.com/macron_/status/251891354047770624

マクロン ‏@macron_ 9月29日

おれの仮説では、重度の「共同体属性不感症(対ヨコ軸認知障害、ヨコ認)」患者は排外ライセンスのグレード格差に合わせて事実認定が歪む(【構造】の奴隷)。