雑感

マルタ・アルゲリッチ/アレクサンドル・ラビノヴィチ『メシアン/アーメンの幻影』を聴く。初演は1943年だったそうだが、この録音は1989年。昨晩は早く床に就いたが、そうすると夜の11時に一旦目が醒めてしまった。流石に早過ぎるので二度寝したが、しかし午前1時に目が醒めた。別に早寝早起きでも構わないのだが、そうすると大体いつも夕方の6時にはひどい頭痛に襲われ、夕食を摂って9時前後には寝てしまうことが多い。そういえば昨日一昨日とピアノを弾いていない。たまたま2日間弾かなかっただけだが、これがこのままずるずる数週間、数ヶ月、数年に延びていくということもかつてはあったから、気を付けなければな。

暇人だし2ちゃんねるの自分のスレッドはいつも必ずチェックしているが、腹が立つことばかりでやめたほうがいいかもしれないな。そこに書き込んである意見をつらつら眺めて思うのは、本当にどうしようもないろくでなしどもと、多少は物の道理のわかったというか、またはわかったフリをしている(書き込みの端々から匂わせている)連中がいるということだが、それも別にどうでもいいことで、どれほど相手のことを推察し洞察しようとしても、断片的な言葉の数々からわかることなど知れているからである。

そうして何を書こうと思ったかといえば、一つは歴史の終わりというポストモダン的な発想がリアルに感じられるということで、自分には過去の諸々の記録の断片しかないし、それ以外のものには興味関心が全くないということだ。だからYouTubeとか何とかかんとか。図書館とか。そういうことに終始している。iPhoneとかね。私は過去が好きだ。過去だけが好きだと申し上げてもいいが、そうすると萩尾望都の『ポーの一族』でエドガーがいうような「過去へ…… 過去へ帰ろう」という結論になるのだろうか。

2000年から21世紀初頭の数年間のNAM、これまたどうでもいいことだが、基本的に株式会社が支配的な今の世の中に対して、生産/消費協同組合が支配的になった社会というヴィジョンを持っていたが、私自身は当時から奇妙な空想を愉しんでいた。つまり、社会全体が図書館(的)になったような社会という……。当時から私は貧乏だったし(今もそうだが)、出版されたり公開、リリースされたありとあらゆる記録が整理されて所蔵され、ウェブサイトで検索可能で、取り寄せることも予約することも全部無料・無償でできる。書籍に限らずCDもヴィデオもDVDも、何もかも……。勿論そういうような、貨幣も資本も市場もない(排除ないし廃棄した)社会なんてものはかつての現存社会主義以上に成立し得ないものだが、だがしかし私はそういう空想をいつも愉しんでいたということだ。それは今も変わらない。全てが図書館になった社会……。そこではそもそも商品が消滅するが、《財》、モノ・サーヴィスは……。地域通貨で取引・交換されたり、または生協で流通したりするようなモノですらない。だって全部無償なのだから。──そんな社会はあり得ないが、だが、空想するのは自由である。

もう一つはかなり長く続いている体調不良ということで、頭痛や胸の痛みのほか随分腰が痛い。過激な運動など何もしていないのだが、じっと座っていたり寝そべっているのも身体には負担で悪いのだろうか。この腰痛も何年も続いているが……。38歳というこの歳になると身体もあちこちガタが来るのは当たり前かもしれない。ただ、想い出すことができる限り昔から心身の調子が良かった、快適だったということは一度もなかったが、私が思うには、内感というか内部感覚、例えば痛みや不快感などに焦点を合わせる限り、それはどんどん大きくなるばかりなのである。臨床医学とは別の体験的な意見だが、例えばどこかの痛み、頭痛や腰痛などに意識の焦点を合わせてそこにずっと集中するとすれば、意識というか考えはその痛みのことばかりになる。そうして注意深く細かくそれを観察すればするほどにどんどん大きくなるというのは、別に本当に初歩的なつまらない心理で、百年とかそれ以上前にモラリストたちが幾らでも指摘していたことであろう。

まあそれはそれだけのことなのだが、それから…… それから昨日はYouTubeで『ケイゾク』のラスト3話を視聴して非常に愉快だった。私はVHSヴィデオもDVDも持っていないが、iPhoneがあるお蔭でかなりの過去の映像を無料・無償で観ることができるが、それは私なりの歴史の終わりという考え方を強化するが、このところはそればかり愉しんで、面白がっているのである。《生きた》もの、《活きた》もの、ライフ、ライヴ…… といったものは私には「ない」のである。あるかもしれないがアクセスできないしするつもりも一切ない。私は行動しない。行為しない。立ち上がらないし、どこにも行かず、誰にも会わない。ジャズのライヴにもクラシックのコンサートにも行かない。観劇にも行かない。映画も観ない。新しいものには接しないし、このところは新譜も買わない。書籍も滅多なことでは買わない。だから、一切は図書館的な過去としてどこかに整理分類されて眠っている。私にとっては世界はそういうものであり、そしてそういうものであるだけである。随分《反動》的なというか、保守反動的な考え方かもしれないが、むしろ《反働》というか…… アクチュアルなものに反対だというか否定的だという意味でである。アクチュアルというのは元々アクト(act / acte)、現働態というところから来ているね。そうではなく撤退、退却、隠棲だというところに昔から変わらない私自身の志向がある。子供の頃からやりたいことはといえば小説を書くことくらいで、だがしかしそれは38歳の現在も少しも果たせていないのだ。