雑感

一旦二時半に目が醒めたが、まだあんまり早いのと、眠気が取れないのでもう一度寢ることにした。今しがた起きたが時刻は午前四時四十分位である。螢光燈を点ける前に薄暗い中耳を澄ますと微かに雨の降る音が聞こへたが、自室の扉を開けて階段の窓から眺めたらまだ其れ程降つてゐなかつた。だから窓は閉めなかつた。サテ日和見下駄と云ふ物を書き續けてゐるあたしだが、屡々ファシスト風味の絶對の意志と云ふ事をば口にしてゐるが、だが然し考へるのはいつも唯だ一つ孤獨の價値や意義と云ふ事である。殆ど其れだけだと申し上げても差し支へが無いであらう。遥か昔から考へる事は同じである。孤獨。獨りであると云ふ事が如何に貴重であるかと云ふ。その感覺はあたしは幼少時から少しも變はらない。誰か他人と仲間にならうなどとは一切思はないからである。然しさうすると、現在のインターネットのSNSと云ふのは存外不自由な物なのかもしれぬ。何故ならばついつい氣にしなくても良いだうでも良い事を氣にしてしまふやうになるからで、此れは人間性の堕落だと常々感じてゐるが、だつたらインターネットなぞ止めれば良いと思ふ人が多からうと思ふが、毎日餘りに暇なのでネットを更新してしまふが、心理家パスカルを待つ迄もなく退屈と云ふのはあらゆる悪徳の母ですな。まア悪徳でも構はない、結構ではあるのだが、生産性の無さには自ら呆れるばかりで、日々是勉強、修行だとは思ふのですがね。例へば本を讀む。考へる。さうして書く。書き續ける。文章を練習して……さう云ふ事は子供の頃からずつと續けてゐるが、一向に上達しないのが困り物である。当たり前の事だが子供の頃から若い頃、十代の昔に至るまで、學者先生にも政治家にも何にも成り度くはなく、経営者にも投資家にも労働者にも成り度くはなく、作家、音楽家にだけ成り度かつたのだが、さう云ふ甘い夢は中々叶ふ物ではないとはいへ、あたしは三十八の今日迄變はらず同じ事ばかり追ひ求めてをりますが。ワナビーだとか文士崩れだなどと貶す連中がゐても一向氣にしない。あたしはあたしであり、他者他人との相對的な比較や関係などではなく、常に何時でも自分自身であり續ける事だけが大事なのである。昨晩森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』の冒頭を引用して、技癢を感じたと云ふ事を申し上げた。そこでその鴎外に立ち返つてみれば、この小説の主人公は哲學を職業にしてゐる金井湛君である。その金井君が技癢を感じると云ふのは夏目漱石(金之助)の『我輩は猫である』である。さうして自然主義文學には「格段技癢をば感じなかつた」と云つてゐる。あたしはさう云ふ事から色々考へる訳ぢやが、明治文壇に於ける漱石鴎外の特権的な位置であるとか、新しい文學運動としての自然主義の勃興の意義であるとか、はたまた其れの言文一致や客観写生文などとの關聯であるが、文學を専門としてゐないあたしには少々荷が重い課題ぢやが、まア所謂日本の近代と云ふ物を考へる上での一つの材料としてさう云ふ事も勘定に入れてゐる。つまり言葉、言語の問題であつて、あたしには其れだけが大事なのであるが、今しがた不図想ひ出したのは陽明學の知行合一であるとか、諺や格言などに云ふ言行一致である。言葉と云ふ物は何に一致しなければならないのか。それは行動、行ひであるのか、客観や現實、はたまた外物であるのか。或は又言葉は唯だ言葉のみに送り返され、言葉それ自身のみを目指すべきなのか。あたしにとつて考へるべきである、考へる必要があると思はれたのは殆どさう云ふ抽象的で瑣末な事だけであつた。ですから昔からさう云ふ事ばかり考へてゐるのだが、何も結論らしい結論は出ないが、下手の考へ休むに似たりとも云ふし、考へてばかりゐても致し方がないから、下らない實践なんぞにも手を出したり伸ばしたりも為てみる訳ぢやが、さう云ふ訳でかう云ふ日和見下駄をですね。書いてゐる訳ですよ。毎日ね。所謂戯作的なと云ふか、文學體でなく話體と云ふか、擬古文と云ふか、インチキ出鱈目と云ふか、それは分からぬがね。とにかく實践實行してゐる。と云つても社會的に有為な有意義な事なんかは何もやつてゐない。口先というかこれはパソコンだが、と云ふ事は筆先でもなく。要するに言葉と云ふ事で、唯だ單に言葉、言葉、言葉、其れだけである。此れは非常に詰まらない、非生産的で不毛で逃避的な事、社會的な事業やあらゆる實際上の達成を放棄した何かなのか? 其れはさうかも知れぬが、然しさう云ふ難しい事はあたしには分からないと一言申し上げて済ませておけば其れでよろしからう。さう思ふのですが、だうでせうかね。