雑感
1、2時間前目が醒めて、本とCDの整理をしてから読書していた。少し目を通したのは、カール・バルト『ローマ書講解』(小川圭治・岩波哲男訳、河出書房新社 世界の大思想33)。河本英夫・佐藤康邦 編『感覚〔世界の境界線〕』(白菁社、叢書 現象学と解釈学)に収められた一ノ瀬正樹「音楽化された認識論に向けて Towords Epistemology Musicalized」。浅田彰・黒田末寿・佐和隆光・長野敬・山口昌哉 著『科学的方法とは何か』(中公新書)。ポアンカレ『科学と仮説』(河野伊三郎訳、岩波文庫)。ペトロニウス『サテュリコン 古代ローマの諷刺小説』(国原吉之助訳、岩波文庫)。リチャード・F・バートン『全訳 千夜一夜 アラビアンナイト 2:360人の美女をもった大王』(大宅壮一訳、集英社)。いま音楽はThelonious Monk "Monk Round The World"を聴いている。いろいろとあるが、とりあえず『科学的方法とは何か』で浅田彰が「75年以降の経済学はひどい」(178ページ)と述べているのが気になる。そこで槍玉に挙げられているのは、税率と税収の関係を示すと称するラッファー曲線である。佐和隆光が「まさに疑似科学の典型例ですね」と応じる。彼らが非難している保守的な反ケインズ主義の流れというのは、いわゆる新自由主義経済学ではないかと思うが、よくわからないのは180ページで、なぜか、市場均衡の存在や安定性の条件を示すことから非存在や不安定性の可能性が確定されるとか、合理的期待形成論から期待が常に外れたりサプライズの累積によって経済が恐慌に向かって暴走してしまう可能性が明らかにされると浅田氏が示唆していることである。僕の門外漢なりの理解から申し上げれば、ケインズと新古典派の論争はともかく、20世紀において決定的に重要なのはポパーによるマルクス主義への批判や、マルクス経済学、『資本論』の第一巻と第三巻の矛盾や齟齬、即ち価値/価格に関するベーム=バヴェルグの論難であろう。これは古典的な話ですが、いまどうなっているのか。僕なんかが調べる限り、いま、マルクス主義とかマルクス経済学の類いは文献訓古学、テキスト評釈以外のものとして存在しているのか? 大いに疑問である。即ち、政策の選択や決定に関係するようななにか有力な理論的バックボーンとしてあり得ているのか? 世界的な潮流はともかく、いまの日本だったらリフレ派、アベノミクスの是非が決定的に重要だが、この問題について発言しているマルクス経済学者(?)は松尾匡だけなのではないか。金融緩和やインフレターゲットなどによって経済成長を志向し、そのことによって貧困を緩和・解決すべきなのかどうか、その路線について個々の市民や有権者は、また政党や市民団体や労組などはどう考えるのか。これこそ大問題ではないか。マルクスを細かく読むことで上述の問題に何か示唆が与えられるのか。TPPにしてもそうだ。古典派経済学としてはデイヴィッド・リカードウの比較優位説があるが、それについてマルクスを含め後の経済学はどういうスタンスや答えが出せるのか? そして、例えば市民、即ち、時には労働者として、また時には消費者として振る舞う個々人であるとか、その集団や団体、例えば労働組合や消費者団体などは、経済学、経済科学の精密なロジックとは別の何かに基づいて動いている。それを責めることはできないというか、労組が労働者の利益向上を目指し、例えば生活保護切り下げに反対するアクションが各人一人一人の生命、いのちや生存を守る動機で動くのは当たり前のことである。それはそうだが、一定の合理性が必要であり、例えばベーシックインカムなどの政策提言は如何なものでしょうか、とか、また、幾らでも貨幣は刷ればよろしいという意味不明な楽観論も支持できない。少し現実的にはワークシェアやいわゆる「北欧モデル」の現実性や妥当性はどうですか。日本の産業構造の現状の評価や今後の(世界、海外との輸出入、貿易を含めた関係に大きく規定される)方向性はどうですか。こういうことをできるだけ現実的、合理的に一つ一つ考えて評価していく以外に我々の採るべき方途はありはしない。そして僕が懸念するというか疑うのは、運動寄りの言説が端的な経済学否認、否定であることだ。フリードマンを批判した『経済ジェノサイド』。ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』。堤未果の一連の著書。さらに遡れば『資本主義黒書』などなど。僕はこういうものを非常に疑っているのです。どうもすいませんね。