小噺天国

【熱湯浴海水浴。昔毛沢東君今なんとやら】

「リアルな世の中に出て、民衆と触れ合って、民衆という広い海に身を投じて……そこで人々と地道に交流しなければいけないんだ!」

(どっぽーん)

(5分後)

「ふはぎゃ。げほげほ」
「おかあさーん、あの人溺れてるよ?」
「いいの、あれは放っておきなさい。さ、行きましょ」

「えっ。助けてくれないの」

「さ。行こ行こ」

「ふはぎゃ」

(暫くして)

ぜっつめいと

【離婚原因】

私「離婚原因のトップは性格の不一致であるさうだ」
友人「性の不一致の間違いじゃねーのか?」
私「いやだから、性格の不一致が性の不一致なんだ」
友人「わけわからんよ」
私「性別の不一致」
友人「そりゃ一致してない場合のほうが多いだろう」
私「そうだったのか?」

「えっ」

【神様が御覧です】

誰かから見られてると興奮するのが変態といった人がいるから、じゃ、こういう小噺を作ってみようか。

それはバークリー主義者、バークリー司教の哲学の信奉者のお話である。

バークリーは存在するとは知覚されることだといった。逆にいえば、誰からも知覚されないものは「ない」。だが、実は、神様が世界のすべてを眺めていて下さる。

そのバークリー主義者はそう信じて、誰も見ていないところで一人孤独に善行を積み重ねていった。半世紀が過ぎ、彼は「神様が御覧になっている」と確信したまま安堵して死んだ。

だが、神は存在していなかった。そういう小噺である。

この小噺の核心は、勿論、神が存在していないということではない。そんなことは当たり前である。そうではなく、彼が誤認と誤信の中で数十年生き、死んでいったという無意味である。そこでさらに一歩進めて、誰かその「真実」を知る人が彼の生前にそれを告げて、彼のありとあらゆる希望を根こそぎ徹底的に破壊すべきだったのではないか、と省察されるであろう。

神、神々は存在していない。神が自らに似せて人間を創ったのではなく、人間が自らに似せて神を捏造した。

という意見は17世紀のリベルタン、18世紀の自由思想(彼らは無神論までは行っていない)、19世紀のフォイエルバッハなどに始まるものではなく、古代からあるが、エピクロスルクレティウスを読むと、彼らだけではないが、伝統的な宗教や民衆の神々の観念が批判されている。それはそうと、哲学者や社会学者、科学者などが云ったように、宗教なり神、神々の観念が人間社会や歴史のダイナミズムから生成するのだとすれば、僕はこう思うが、萩尾望都の漫画の題名のように「残酷な神が支配する」わけではなく、あたかも神のごとくに残酷極まりない人間たち、人間社会が支配するのである。

そこにおいて支配的なのは人間玩弄の非情さである。神が人間を弄ぶのではなく、実は人間が人間を弄んでいるのだが、それは錯覚や妄想の中で誤認されるのである。そのことも含めて救いも出口も一切ありはしない人間の悲劇が終わることなく展開される。そういう意見について、シュレーバーだけでなく山田花子なども参考になるであろう。

あのさ、二和の街を歩いて、商店街を抜けると、踏切のところに交番があり、掲示板があって、そこに「人間を救うのは人間です」と貼り紙がしてあるのです。僕は通り掛かるたびに内心「嘘をつけ」と罵倒している。