無情のかけら

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 マニアック #3
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■無情(ゆめ)のかけら

一週間ぶり。はろはろ〜。
特に書きたいこともないんだけど、まず、これから。ちょっとしたコント(?)です。

☆ 明るい闇

本題は、「心」とか魂などがないのではないか、ということだけど、その前にね。
思い付いたことを。

「心」のステイタスがどうなのか、という原理的な事柄と、相手の心を読むといった
心理的、実際的なことは別ですよね。「心」を疑うから、そういうことをしない、
ということにはならない。「心」がなければ、どうやって、存在しないものを
読むのか? それは勿論そうなんですがね。

そういうことで申し上げたかったのは、次のことです。
最近LINEでたまに遊んでましてね。昔からの知り合いとか、Facebookでたまたま
知り合った人とかと(数は多くないですが)チャットや会話してます。

ぼくはよく心を読む、心理を読むということを申し上げますが、それは勿論、
ぼく個人とか、または特定の集団の人々だけの専有物であるはずがありません。
他人の気持ちや公言されない感情を洞察する、というようなことは誰にでも
できるはずなんですね。

それで面白かったというのは、そういう人々、女性たちと話していて、
特に何かを話すというわけでもないのですが、例えば或る人が、こういうことを
書いていました。

(病んだ人の心の闇は、健康な人の心の闇よりも、却って明るいことがある。)

ぼくはそれを読んで笑いました。そして、特に何も言いませんでした。
これはそれだけのお話です。

☆「心」、または魂を巡って

皆さんは「心」というと、何を思い浮かべるでしょうか。
大多数の人は、夏目漱石の小説のタイトルを連想しませんかね。
そうです。『こころ』です。

そこにはあれこれのことがありますが、小説の構成、また内容……。
そして、何よりも『こころ』であるということ。
物体とか肉体ではないのです。そこに興味深い点もあれば、また疑問な点も
あります。
ですが、今日のテーマは文学ではありません。

それでは「魂」はどうでしょうか。こちらは、単に「心」というよりもぐっと
宗教的、またはスピリチュアルな感じがします。
そういう宗教そのものでないとしたら、例えば、大江健三郎氏の
「魂に対する態度」を思い浮かべないでしょうかね。
つまり、特定の宗教の信者ということではなくても、という次元です。

「心」のステイタスや本性を巡る論争は一向に片付いておりませんが、
今日ここでぼくが申し上げてみたいのは、「心」、「魂」についての懐疑、
または否定です。

「そうはいっても、自分や他人に心がある、という事実は疑えないのでは
ないか?」、そう反駁する方がきっと多いでしょう。
それはその通りなのです。ですが、もう少し考えてみましょう。

我々が「心」の実在を自明なものとみなす、というのは、現在自分に
意識があることだけは確実だと思うからです。実際、そうでなければ、
今こうやってものを書いたり、議論することもできないでしょう。
ですから、問題はそういうことではないのです。

それではどういうことかと申しますと、まず挙げる必要があるのは、
カントの『純粋理性批判』です。彼はそこで、合理的心理学(魂論)を
批判(否定)しています。
心理学という名称に惑わされてはいけません。それはむしろ、宗教的、
キリスト教的な観念なのです。

それはこういう意見です。個々の現われ、現象を超えた実在として
「心」なり「魂」が確かにある。そして、それは死後も存続するのだ、
といった観念です。
カントは、それに対して、彼なりの用語法で、心というか、心理において
生じるあらゆる事柄も「現象」なのだ、と言いました。「現象」というのは、
「物自体」ではない、ということです。また、心について、実体性も
否定されたのではないか、と思います。

それを言い換えてみますと、個別の多様な様々な現象、現われを超えて
不変の同一性を持った「何か」がしっかりと存在している。そういう
考え方をカントは否定したことになります。否定というのは言い過ぎかも
しれません。彼には「理念」の問題があるからです。
ですが、「合理的心理学」、つまり、超越的な実在としての心を直接
認識することができる、という立場を完全に斥けたことは確かです。
(後年、例えばベルクソンはカントの批判に抵抗したのではないでしょうか。)

カント以前に、『人性論』におけるヒュームのバラバラの印象、観念、
それのコレクション、観念連合の問題がありますが、近世、近代、現代において、
唯心論的、観念論的な哲学が狭く鋭く深く分析しながら見出したのは、
統一的で実体的な、言い換えれば、あれこれの変化にも関わらず同一に留まる
「何か」としての「心」はあり得ないのではないか、ということでした。

厳密にいえば、心と意識は別の概念でしょう。ですが、細かいことに
拘らずに考えてみますと、我々は多様な心理現象を経験していますが、
それを完全に統一したり、また、多様な変化にも関わらず常に同一に留まる
何かがあるのでしょうか。ぼく個人は、それがあるとは言い切れないと思います。

カント主義者は、「君はそういうが、それでも、『統覚』がなければ、
経験は可能にならないのだ」と反駁するでしょう。確かにそうですが、
その場合の統覚というのは、論理的に要請されたものなのではないでしょうか。

統覚、ないし、何らかの統一性、自己同一性がなければ、精神分裂病
統合失調症の状態になってしまうのではないか。━━これもそうはいえないと
思います。それは、経験なり体験のリアルを見ない意見だとぼくは思います。

一挙に話が俗っぽくなって恐縮ですが、寺山修辞が作詞したカルメン・マキの
『時には母のない子のように』。その中に、こういう一節があります。
「だけど心はすぐ変わる。母のない子になったなら、誰にも愛を語れない。」

何も女性に限らないと思いますが、女心と秋の空と申しますが、心が「すぐ変わる」
ことが重要です。ここで、冒頭に申し上げた漱石の『こころ』を思い出してみましょう。
そこに出て来る先生を追い詰めたのは、他人のみならず自分自身に対する不信ですが、
その理由は、彼自身も統御できないところで心が変わってしまう、ということへの
驚きでした。つまり、彼は三角関係において親友のKを残酷に追い詰めて、
自殺させてしまったのです。『こころ』という小説のテーマ、そのタイトルと
内容が指し示すことはそのこと、つまり、心が「変わってしまう」ことなのです。

勿論、自分の心が変わってしまった、ということを認識し、記憶することができる
という意味では、「心」は否定されたわけではないでしょう。
統覚がなければ経験そのものが成り立たない、というカント主義者の反論に
似ていますが、心の可変性に驚くとしても、そのことを知り(認識し)、記憶する
ことができるのでなければ、変わった事実にも気付くはずがないからです。
それはそうなのですが、漱石の小説における「先生」は或る種の失調に
悩まされている、といえるでしょう。
その失調というのは、どう申し上げればいいのか、そういうものがあるのかどうか
ぼくははっきり存じ上げませんが、健康で行動的、能動的な主体になることが
どうしてもできない、という躓きです。それは神経症のようなものなのでしょうか。
そうかもしれませんし、そうではないかもしれません。それは分かりません。
ただ、近現代に限らず、人間の経験にはそういう悲劇的な次元が含まれている、と
思います。

漱石の『こころ』とは逆に、当人の心変わりを本人は悩まず、周囲が苦悩する
例として、ヴィスコンティの『冬の嵐』だったでしょうか。それを
挙げてみたいと思いますが、その主人公、アラン・ドロン演じる青年は、
映画の冒頭では、イタリア独立のために闘う革命派として登場します。
ところが、物語の終わりにおいて、彼は、何の罪悪感もなく祖国を裏切ります。
彼は、単に出世したかっただけなのです。そして、交際していた女性も捨てます。
彼女はそのことに衝撃を受け、軍の上官に彼の裏切りを告発します。
それは、彼を(もし、逮捕されれば)死刑にすることを意味します。
上官は驚き、彼女に、本当にいいんですか、と何度も訊ねます。彼女は頷きます。

そういう悲劇的な物語です。

さて、大した議論にはなりませんでしたが、今日はこのくらいで。また来週!

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編集:攝津正
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