有料メルマガ創刊
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マニアック #2
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■実質創刊号!
明けましておめでとうございますっ! メールマガジン発行人の攝津正です。
同姓同名の野球選手がいるけど、別人ですよ。勘違いした方いらしたらごめんなさい。
ぼくは船橋市に住んでいて、毎日6時間くらいUstreamを放送しています。
もしよかったら、視聴してみて下さい。
さて、このまぐまぐの有料メルマガですが、余りにも収入が少ないので(笑)、
止むを得ず始めてみました。
船橋で音楽教室を経営していますが、生徒が少ないんだよねえ。
ま、このメールマガジンだって100円200円の世界ですけれど。ないよりまし。
『マニアック』というタイトルにしてみましたけどね。
ニッチな需要を当てこもうと思ったのですが、そんなものが果たしてあるのやら。
それは分かりませんが、そういうことを申し上げていても致し方がありませんから、
とにかく書いてみましょう。
☆ ヘーゲル「始まりは任意」
じゃ、始まりだから、「始まり」について書いてみましょうかね。
19世紀のドイツにヘーゲルという有名な哲学者がいますが、彼はその著作、
『小論理学』だったか『大論理学』だったかで、
「開始は任意である」という意味のことを述べています。
どういうことかと申し上げれば、ヘーゲルにとって真理とは個別的、部分的なもの
ではなく、全体です。彼の言い方では、それは円環を成しています。
人々が、とっかかりとしては偶然で任意などこから出発したとしても、
まともにちゃんと考察していくならば、それは全体=円環に到達するはずである。
だから、開始は任意である、という理屈です。
そして、そのヘーゲルの言い分は妥当なのでしょうか?
ヘーゲルの同時代、また、没後に当時の哲学界のヘゲモニーを握った彼の哲学に、
激しい異論や反対が提起されました。
まず、同時代人としてヘーゲルに反撥したのは、ショーペンハウアーです。
彼はヘーゲルの概念的で壮大な思弁を嫌い、彼なりにもっと真摯な哲学を提出
しようとしました。主著は『意志と表象としての世界』。彼はドイツ観念論とは
違う流れで、カントの自己流の解釈(カント自身が「観念論論駁」で
こういう読み方はしてくれるな、と苦情を述べた読み方をした誤読)による
独特の思想ですが。
彼は、ヘーゲルの向こうを張って、自分の講義をわざわざヘーゲルの
ベルリン大学での講義と同じ時間帯に設定しましたが、その結果、彼の講義には
受講者がほとんど現れなかったそうです。
そして、ヘーゲル没後は後期シェリングです。
ヘーゲルは彼が若い頃の主著『精神現象学』の序文で、シェリングの当時の
哲学体系、同一哲学というものを、「闇夜の黒い牛」と非難しました。
その意味は、シェリングは、概念に具体的な規定を与えないので、
あたかも真っ暗闇の夜のおける黒い牛が識別できないように、それぞれの
概念が識別できない、という意味です。
シェリングは19世紀のドイツ観念論、ロマン主義的な傾向の哲学の
代表的な哲学者であり、また、天才肌の人でしたが、そうであるが故に、
生涯において余りにも何度も立場を変え過ぎました。
彼は、出発点はフィヒテに近い立場ですが、そこから離れ、
同一哲学だけでなく、自然哲学、神話の哲学、『人間的自由の本質』、
『世界時代』など多数の著作を発表します。
彼のヘーゲル批判としてここで重要なのは、後期の「積極哲学」というものです。
今ちゃんと調べていませんが、彼はヘーゲル没後にベルリン大学で講義をしました。
ヘーゲルを乗り越えるという触れ込みです。
それは当初大人気であり、多数の聴衆が集まりました。
ですが、老シェリングの講義は人々に失望を与え、多くの人々は去っていきました。
そしてそこには、若き日のキェルケゴールやエンゲルスも含まれていたとのことです。
それがどうしてなのか、を考えたいと思いますが、まず、彼が画期的とみなした
「積極哲学」がどういうものなのか、ということですが、
それはこうです。
これまでの哲学は、偉大なヘーゲルを含めて、本質存在だけを考察してきた、
とシェリングはいいます。本質存在というのは、ドイツ語ではなく英語で
すみませんが、essenceですね。
自分は現実存在、exsintenceを主題的に取り上げるのだ、とシェリングは
大見得を切ります。
このように申し上げますと、少し20世紀の思想を御存知の方なら、
「それはいわゆる実存主義とか実存哲学という考え方の先駆ではないか?」
と誰でも思われることでしょう。
それは確かにそうなのです。ですが、少し考えてみていただきたいのですが、
これまでの哲学が本質存在の考察に力を注いできた、ということには
ちゃんとした理由があったのです。
それは、哲学は言葉によって、そしてそれだけでなく概念によってのみ
主張され展開されることができる、ということであり、事物という次元において
展開されることはできないのです。
ヘーゲルは認識、哲学的認識について、「物の殺害」という表現を用いていますが、
それは象徴化とか象徴秩序という文脈で20世紀にしばしば引用されています。
物の殺害、事物の殺害という表現の意味は、認識は言葉、一般的な概念という
エレメントにおいて為されるので、それによって、事物の具体的な個別性は
消え去ってしまうのだ、という意味です。
20世紀ふうにいえば、我々は概念枠を通じてものを見ているわけであり、
一旦そういうことになるならば、「なまの」事物そのものを見ているとは
もはやいえないのです。
ヘーゲルの「認識するとは殺すことだ」という少し奇抜な表現もそういう意味です。
彼の考える哲学的な認識は一般的、普遍的な地平にあるものでしょう。
殺すというのは、言い換えれば個別性を捨象して一般性の地平に置き直すという
ことですよ。
さて、シェリングに戻れば、上述のように考えてきますと、現実存在、実存
(実存というのは20世紀とか、せいぜいキェルケゴール以降のexistenceに
ついて言ったほうがいいですが)をメインにするのだ、といっても、
その現実存在は非常に偶然的で儚いものだということになるでしょう。
実際、シェリングの思索においては、根源的な偶然性についての省察が
どんどん重要になってきます。
少しいえば、九鬼周造『偶然性の問題』や、また、ラカンがアリストテレスから
拝借した「テュケー(偶運)」という概念だけでなく、20世紀において
偶然性の考察は重みを増しましたが、それは、我々のリアルは
究極的には概念的な一般性においてではなく、偶然の出会いや事故において
あるからです。
それはそうなのですが、そういう現実存在、実在、リアルなどなどは、
それについて漠然と言及することはできても、論理化することがどうしても
できない残余という規定そのものによって、十全に規定し、言語化することが
できないものです。ですから、それは、シェリングが幾ら
「俺は哲学の歴史において初めてexistenceを考えるのだ!」と力瘤を入れてみた
ところで、明確なロジックとして提出されないということになります。
キェルケゴールやエンゲルスの不満はまさにそこにあったのです。
彼らはヘーゲル没後の主流の二つの傾向、つまり、実存哲学とマルクス主義を
代表する思想家ですが、彼らは、現実、リアルについて、シェリングのように
(皮肉なことですが)概念的、形而上学的に語るのではなく、
それぞれの仕方で具体的に語ろうとしたのです。
キェルケゴールという人も、哲学テキストから文学に近いもの、さらに、
キリスト教の講話など大量の著述を遺した人ですが、『死に至る病』や『反復』
などを見ますと、概念の一般性に解消、還元されない個別性に拘っています。
彼が書いている例でいえば、それは、何かの文章の中の書き損じ、書き間違いの
ようなものです。我々は通常、何かものを書き間違えたら、綴りや変換を間違えたら、
当然それを修正し訂正します。しかしながら、その書き間違いが、消されることに
抵抗するのだとしたらどうでしょうか。そのちょっとしたミスの次元が、
執拗に存続し自己主張するのだとしたら。存続する、自己主張するというのは
共にinsistですね。exsist(現実存在する、実存する、外-立する)の逆の
内-立する、です。
それはフロイトが重視する失策行為、しくじり行為のようなものでもあるでしょう。
また、そういう文章という文脈ではなく、もう少し広く見てみるならばどうでしょうか。
我々は、社会のなかで否定されることがよくあります。お前はダメだとか、
ダメ人間だとか、世の中に必要とされていないとか、その他諸々の表現で否定される
ことがよくあります。
それはこういうことなんですよ。ヘーゲルや、ヘーゲルの弁証法論理を継承した
マルクス(主義)などの考え方の枠内では、現実、つまり、社会、歴史、経済などは
一定の仕方で論理化されていると想定されています。
経済はともかく(それについては哲学とは別箇の経済学があるわけですから)、
社会や歴史のダイナミクス、変革の過程の根底に彼らのいうロジックがあると
されるわけです。
そうしますと、社会的に否定される人々というのは、お前の存在は、
個別的で偶然的などうでもいい無価値なものだから、それは社会、歴史の
ダイナミックな進展についての弁証法的な論理によっては正当化されも説明も
されないものなのだ、と言われてしまう人々である、ということになるでしょう。
もう少し申し上げましょう。19世紀から20世紀、そして21世紀の現在に
至るまで、左翼的な思想家や論客が相手を批判し非難するときというのは、
その人に「反動」、反動家の烙印を押す、というものです。
反動とは能動的、アクティヴではない、ということで、何か他人の積極性、能動性に
反撥するありようしかしていない、という意味合いがあります。
そういう批判のタイプというのは、19世紀後半においては広く共有されています。
例えば、マルクス主義とは全く異なるニーチェを考えてもいいでしょう。
その反動というのは、もし、歴史の流れや進行に一定の理路なり論理があるならば、
その反動家の存在や営為はその論理の枠内に記入されることはないということです。
反動家は、少し衒学的な物言いで恐縮ですが、あたかもライプニッツにおける悪のような、
否定的な媒介、消え去る媒介としての役割しか果たしません。
彼/彼女の抵抗は、歴史、世界史の主役、主人公と想定される存在によって
乗り越えられるべき偶然的な障害に過ぎないのです。
今「記入」と申し上げましたが、記入━━書き込むこと、及び、記憶、記録というのは、
本質的な問題です。そこにあるのは、歴史記述において記録されないし、後世の人々に
記憶もされない膨大な存在がある、ということです。
言葉で書かれる歴史の外部があるのです。
お前は無価値である。だから、誰かもっと積極的な意義や役割を担った存在に
席を譲って消え去らなければならない。お前の存在は、否定的で消極的な媒介、
歴史の必然的な進行のプロセスをちょっと面白くするというためだけの意味しかないのだ。
だから、歴史に書かれることもなく、誰かに記憶されることもない。
そこにおける最も罪の軽い罰というのは、その存在が一瞬にして消え去り、
その後には全く何も残らない、ということである。
まあ、そういうことになりますね。今申し上げたのは、マルクスやニーチェの
哲学的と申し上げていいのか、形而上学的な側面ですね。具体的な経済学その他は
別ですよ。
それはそうですが、現在の我々は、上述の物言いについて、そもそも、社会的現実や
歴史などは彼らが想定するような仕方で論理化され必然化されているのだろうか、
という疑問を差し挟むことができるでしょう。それはそれこそ、もっともっと
偶然性が一般化した世界なのではないでしょうか。
さて、ちょっと脱線が長くなりましたが、キェルケゴールにおいて問題なのも
ヘーゲルの概念的な思弁、一般性のエレメントに含まれない個別的なものです。
ただ、彼はそれをシェリングとは違って、様々な具体相において描き出そうと
努めました。彼には恋愛小説に近いテキストが沢山あります。『反復』がそうです。
また、『不安の概念』のような、実存論的というより心理(学)的にみえる
詳細な分析もあります。『現代の批判』では、当時のメディア(新聞)を批判的に
取り上げました。『死に至る病』は「絶望」を分析しながら、彼なりに考える
正しいキリスト教、あるべきキリスト教を論じています。彼は、狭い意味の哲学
というよりも、美的/倫理的/宗教的という段階、階梯を考えました。
エンゲルスですが、老シェリングに失望した彼は、その後ヘーゲル左派と呼ばれる
一群の思想家との交流や彼らへの批判を通じて、マルクスとともに自らの
社会主義思想を形成していきます。ヘーゲル左派にも沢山の哲学者がいますが、
重要な人物を二人挙げれば、フォイエルバッハとシュティルナーです。
ぼくはヘーゲル左派には詳しくありませんし、ここでは詳細に立ち入りませんが、
エンゲルス、そして彼だけでなくマルクスについては、彼らは現実存在、
existenceについて思弁的にではなく、経験的に、また、政治的、批判的に
接近しようとしたということで、そこから、『フォイエルバッハ・テーゼ』の
極めて問題含みの哲学の否定、放棄という発想が出て来ます。
それはただ単に、哲学をやめて経済学とか、または、政治実践に移行すべきである、
という意味なのでしょうか。エンゲルスはどうも、自然科学、社会科学、歴史学の
進歩や発達によって哲学は超克され無用になる、とみなしていた節があります。
ひょっとしたらマルクスもそうだったのかもしれません。
文献的な事実としてはっきり申し上げられるのは、彼は若い頃に
『経済学・哲学草稿』などを書きましたが、後年はそういうものを書かなくなった、
ということです。かつて20世紀中頃、60年代には廣松渉やアルチュセールによって、
マルクスにおける思索の発展の断絶説、疎外論の放棄が主張されましたが、
最近はそれが文献的には間違いであるという批判が多々あります。
それはそうかもしれませんが、もしそうだとしますと、例えば『資本論』のような、
一読してもどうみても経済学(または、それへの批判)にしか読めないテキストの
根底に潜在的に疎外論的な論理や規範的な倫理があるのだ、と言わなければならない
ことになります。それは学者の研究としてはともかく、現実にそういうことを
主張する意味はあるのでしょうか。
さて、メルマガとしては分量が多くなり過ぎましたね。一旦ここで送りましょう。
ではまた、来週!
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マニアック
編集:攝津正
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