賢い許し

さて、即興小説トレーニングのお題は「賢い許し」だそうだが、ぼくは賢くもなければ、人を許したこともない。鬼のようだとよくいわれる……。人生鬼畜系。鬼。悪魔。悪魔ちゃん。悪魔の爪。たぁちゃんの爪は悪魔の爪。長く長ーく伸びている。魔性の女(ぇ

暇潰しに毎日書いているが、ときどき数ヶ月とか半年以上沈黙してしまう。ほんの2時間投稿しなければ、何かあったんじゃないか、死んだんじゃないか、と思われるSNSは窮屈だね。人間、数ヶ月、数年単位の沈黙やスランプは当たり前じゃないのかしら。

ま、どうでもいいが。

自分は元々凄く軽い感じだし、軽い感じでいつも書いているが。深刻な重さなどないのだ。だから、『重力』は何よりも嫌いだった。鎌田哲哉西部忠、また周辺の人々、杉田俊介大澤信亮などのことは想い出したくもない。

まさに、倫理と道徳をこそ断乎として放擲し、拒否するのだ。それがいかなる名において語られようとも、絶対にそれを否定する。

死ぬまで否定し続けるのだ。ぼくは道徳に同意し、それを受け入れたことは一度たりともありはしない。そして、これからもないのだ。

Twitterで川口創などという弁護士のつまらない意見を読んだ。彼によれば、東国原英夫石原慎太郎橋下徹などのモラルを無視して自由奔放に生きてきた人々こそ、歳を取ると、他人に道徳を強制したがる、というのだ。それは他人を服従させるためだという。

だがそれは、リベルタンへの何と根深い偏見、先入観であろうか。ぼくは川口のような人間をこそ絶対的に否定する。彼の意見に同意することなどあり得ないのだ。道徳の拒否、拒絶は自分の生涯のテーマである。それ以外に興味関心など何もないのだ。

ニーチェがよく批判される。鈴木健太郎氏も批判している。もし、ニーチェの哲学が誤謬ならば否定されるべきだろうが、彼が道徳を攻撃し否定したからこそ批判されているのではないだろうか。後世の人々、例えばヤスパースなどは、ニーチェを論じながら、倫理や道徳、さらには宗教などを擁護し、復活させようとしたのではないだろうか。だがしかし、ぼくは一切の信仰を徹底的に拒否する。

それが宗教的信仰であろうと、政治的信念であろうと。
社会や人間、歴史などへの信頼であろうと。
田口卓臣氏が語っていた、〈子供の世界への無条件の信頼〉であろうと。

ぼくにはそんなものは徹頭徹尾ありはしないし、必要だとも思わないのだ。
そんな〈信〉など、絶対に拒否するのだ。それ以外に関心事など何もありはしない。

否定し、否定し、そしてまた否定する。
死ぬまで続く、または、死んでもなお続く、否定の道。

水の花道じゃないよ?

いえ、どうも失礼致しますたっ。

それにしても、ひどく寒いね。
シベリアでもないのにね。

ええっと、残り4分、死分だから、もうちと書き足さないとっ。
何をいえばいいかな? 

そうだね。
何事も、意味や意義を構成しはしない、ってのは、どうですかね。
まさに、その通りじゃないだろうか?

実にどうでもいいが。

残り3分。
インスタントカップラーメンとか、ウルトラマンのカラータイマーを想い出すね。
懐かしいね。M87星雲。67星雲だったっけ。忘れたけど、どっちでもいいな。

ウルトラマンとか仮面ライダーとかゲゲゲの鬼太郎とか、そういう昭和テイストが好きでしてね。
80年代、90年代以降の文化や社会風俗には馴染めなかった。

懐かしくおぞましい昭和の人なんですよ。
あだぢきは。

さて。残り1分。
そろそろ、保存すっかな?

じゃ、またね!
さいなら、さいなら〜