午前3時の思索

昨晩午前十時前に寝て(NHK FMのJazz Tonightは聴けなかった)、午前三時少し前に目醒め、やわらか生茶を一口啜って、長く伸びた爪を切った。CD Walkmanで音楽(『冬の旅』など)を聴こうかと思ったが、とりあえずやめておき、ほとんど無音の静寂を愉しむ。耳を澄ませば、表の県道をたまに自動車が通り過ぎていく。二十年間以上同一の音の風景だ。

昨晩早く就寝したのは余りにも酷い頭痛のせいだが、体調も頗る悪い。あちこち痛んでいるのだ。それこそ、頭のてっぺんから爪先に至るまで。頭皮はぼろぼろだし、頭や眼は(眼の使い過ぎで)痛み、呼吸困難、動悸、鳩尾の痛み、吐き気、腰の執拗な鈍い痛みなどにも悩まされている。だが、病院にも行かずにずっと放置している。治療法などないと思うからだ。不安的な健康(精神状態、体調のいずれも)、悪化するばかりの経済状態、それを傍観するだけで全く何も手を打たないで放置しているのである。《平家ハ、アカルイ》などと呟くだけで。

昨晩Facebookで展開したテレビやインターネットなどのメディアについての省察を整理しておきたい。

まず、私が否定したのは、テレビは権力による愚民化のための洗脳装置だが、インターネットには真実がある、という広く行き渡った信念である。私の見方ではそうではなく、もろもろのメディアの長所、短所を見極めなければならない。

テレビを放映できるのはテレビ局だけだ。これは陰謀論を採用しなくても、誰にでも分かる端的な事実である。そこから、国家(政府)であれ企業(資本)であれ、権力による大衆操作の危険があるといえるであろう。民放の政治ショーの扱いには甚だ疑問だし、NHKが比較的良心的だとしても、当然完璧ではない。

政治や社会などについてちょっと考えたことのある人だったら、そういう既成の報道には不満を持つであろう。そこから、誰でも発信し受信できるインターネット礼讃が出て来るのだが、そこで少し考えてみていただきたいのだ。

確かにインターネットには基本的に誰でも書き込む(或いは、画像や動画、音楽などを発信する)ことができる。インターネット接続環境さえあれば、それは個々人の自由だ。だが、そこでいわれていることが直ちに真実だとか妥当だということにはならないのである。インターネットが自由だという場合、それは、自然状態、無法状態という意味での自由だと思ったほうが良く、そしてそういう自由はどんどん消滅していく趨勢にある。

私自身はよく分からないが、インターネットのごく初期、一部の人しかやっていなかった頃はとんでもなく自由だったといわれる。だが、利用者が増え、政府などによる監視も強まってそういう自由はなくなった。差別とか人権に抵触するといった発言の扱いは微妙だが、少なくとも違法なものは取り締まられるようになったのである。勿論、違法なものが放置されたり、黙認されている場合もまだあるであろう。

それから今後は、子供世代はインターネットをやっているが、親世代は碌に知らない、ということはなくなっていくだろうし、祖父母も両親も、子供や孫などを共にインターネットを愉しむようになるだろう。勿論、経済的、技術的にそれが可能ならば、という話である。私は、インターネットから、匿名であるが故の特別な自由感はなくなっていくと思う。また、インターネットにはネット以外には書かれていない特権的な真実がある、という発想もなくなっていくだろう。

日本などの先進社会、それも、直ちに困窮して死ぬわけではない階層に限られているが、インターネットなどの技術環境は、ごく当たり前の日常になるだろう。かつて、テレビを家族で視聴することが一つの一家団欒のありようだった。家族揃ってやることがテレビ観賞だというのが貧しい文化だというのはさて措き、近未来はインターネットが誰にとっても共通の前提になるだろう。技術的な格差は縮まるであろう。既にiPadなどは中高年にも操作が比較的易しいものになってきているが、それだけでなく、西垣通が予測したように、パソコンとかインターネットがテレビに統合される可能性も大いにあるし、コジマデンキなどを調べればそういう商品ももう売られているのだ。みんながそういうものを購入しているかどうかは分からないが、徐々に誰でも簡単に使える機械が普及していき、これまでのテレビ同然に気軽に使えるようになっていくだろう。

そこから出て来るのは、「一部の限られた人の特権」の消滅と日常化である。特にインターネットだからということでなく、そこで展開されている意見そのものの真偽や価値が問題にされるようになるはずだ。そしてそういうふうに特にインターネット、ヴァーチャルの世界に過剰な幻想を持たないということは、ネット以外の当たり前の日常の再評価に繋がるはずである。

つまりそれは、ヴァーチャルに他者(ひいては、全世界)と繋がっていないローカルな現実ということである。記録されも表現・伝達もされない、当たり前の個人的な身の周りの経験ということだ。ありとあらゆる日常経験を全部記録することが不可能だとか、仮にそうしてもそれを視聴し認識することができる人々が誰もいないことは明らかだろう。筒井康隆の『48億の妄想』や『おれに関する噂』などの誇大妄想、被害妄想の世界は、テレビからインターネットに主役が移るにつれてリアリティを増しているが、そういう他者(誰か)の眼差しなどないそのものとして自足した世界が確保されることが目指されていき、そしてみんなはそのことに成功するであろう。

以上が私なりの楽天的な未来予想図である。