Potenz, Macht (6)

社会や個体を貫く諸力の多数多様性について、私が念頭に置いているのは、王寺賢太の思想である。王寺には日本語での単著はまだないはずだが、『勢力不均衡』という社会分析をウェッブサイトに公表しているし、『思想』誌の最新号では『ディドロ唯物論』への書評というかたちで彼自身の考え方を展開している。

王寺はディドロ研究者だが、私の見方では、ディドロだけからは彼のような意見は出てこない。「群れ」(『千のプラトー』)、複数形で書かれる「機械」(『アンチ・オイディプス』)、「部分個人」(『同性愛と生存の美学』)、さらには、ニーチェスピノザを参照しなければ、社会が不均衡な諸力で構成されているだけでなく、そもそも個人=個体が「群れ」なのだという発想になるはずがないのである。

王寺のような「現代思想」の是非はともかく、問題は、彼がいうのとは逆のところにある。つまり、それだけの通約できない多数性がありながら、どうして社会も個人もまだ完全に分裂してしまっていないのか、崩壊していないのか、漠然とした纏まりや統一性・統一態があるのかということのほうが問題なのだ。一言でいえば、「なぜ秩序が辛うじて成り立っているのだろうか」ということで、私の意見では、「擬制(fiction)」の役割が重要である。

社会レヴェルでも個人レヴェルであれ、何となく信じられ維持されている信念の大多数には合理的な根拠はない。だからといって、それらの全部を欺瞞である、疑わしい、などという理由で排除し否定することはできない。もしそうすれば、ありとあらゆる社会と個人の統一性と秩序が崩壊してしまうであろう。それが現段階の私の考え方である。