1997-8年のノート

大量の資料を整理して、レイモン・リュイエ、ジルベール・シモンドン、ベルナルド・シュミットなどを発掘するが、1997-8年に私自身が書いた大量のノートや小説類、線画、1999-2000年に書いた小論文が出てきて驚く。本当に碌でもないからだが。よくよく読み返してみた。

20年前のノートを読んで、考えている内容が不変だということにびっくりする。思想の一貫性を誇るわけではなく、進歩がないということだが。ただ、20年前は、パソコンで表現できない(デジタル化できない)何かに非常にこだわっていた。例えば、旧字・旧仮名遣いで書くとか鏡文字である。

若い自分は、文字そのものの肉体性や線画などに異様にこだわっていた。勿論、パソコン、インターネット、デジタルな記号で表現できない残余などに意味があるはずがない。当時の手書きのノートには隅から隅までびっちり几帳面に妄想が書き連ねてある。そのことに非常に驚く。

当時の小説は、《西田鬼太郎》とかいうペンネームで書いたもので、文芸誌などではなくゲイ雑誌(『バディ』)に送り付けたが、当然のことながら、無視された。

それはそうと、突然、三咲の商店街の会長がやってきて、8月1日に地域の祭りに出演して貰いたいとのことであり、快諾した。私の津軽三味線のレパートリーは限られているから、仮に毎年出演するとしても、毎度同一の内容になるが、それでいいのならば。彼はフランス語の本に驚いていた。

ノートを読むと、身体に熱があり死にそうだというようなことが延々と長大に記されている。20年後の現在と全く同一である。当時、アクィナスの《至福直観》に寄せて考えていた内容は、神学ではなく、《死の経験》であった。

私の考え方は極端に宗教的だというのが早稲田大学の大学院の哲学科の教授連中の意見だったが、確かにそうかもしれない。私が当時出た『ベルクソンの霊魂論』を参照するのを快く思わない先生もいた。私が大学院のレポートとして書いたのは《美的認識は直観としてのみ可能か》であり、今と同一である。

スピノザの『エティカ』における無限様態について延々と検討した論文も発掘したが、暇な大学生・大学院生しかこんなことは考えられないと呆れた。自分の翻訳も大量に出てきたが、全部誤訳に決まっているから、廃棄したほうがいいようなものである。

当時考えていたのは、それから、例えば《像湧出》(これは私の造語である)とか、《分身》などについてであった。それは一般的な表現を与えられないから、他者と共有することがどうしてもできないような考え方であった。

思想の内容を合理的に理解するのは不可能だから、どうして20年前の自分がそういうことを考えていたのかあれこれ推測してみたが、有意味な結論には到達しなかった。ノートを読み返して感じるのは、観念的であるとかいうことよりも、非常に暗いということである。

"Death Drive by Tadashi Settsu", 時期ははっきりしないが90年代終わりの私の画集である。眺めてみると、形態があり、漫画の吹き出しのように、《うさぎはいつもここにいる!》と科白が書かれている。英語が多いが、全部出鱈目であろう。

"98's dead faces"、ぞっとするような記述が延々と続くノート。一箇所だけ抜き出せば、《ironyとagonyは、響きは少し似ているが、かなり違う。》

《偽風邪之日、吾於電線、表友、etc...》、内容も内容だが、どうして全部擬古文で書く必要があったのか、さっぱり分からない。一文だけ抜き出せば、《私は狭い、ちいさな世界で、草のように、また虫のように生きている。》

"dame dame note"、ペンネームは、"buta mann girai"。鏡文字で書かれている。《中枢だか末梢だか知らないが神経系が粒立つて喋る、地図には肉付き。甘い臭気が箱から戻つて、いずれ葉に描かれた地図が眠る。核に突き刺して目を詰めた。》

《眉根に疲れが凝つている。手は日記の書き過ぎ。喉の奥に、あなたの星座が見えました。》──1998年9月11日の日付のメモ。《きつかけは額に悪と書かれた人が訪ねて来た事でした。その人には俯く癖がありました。眼を視ていないのです。》

《まるで、ぼくの眼が文字通り垂れて、垂れ落ちてでもいるかのようでした。何か尋ねてみたいのをこらえて、凝と消えるのを待ちました。そうすれば良い筈でした。何故ならばこれ迄はそうしてきたからです。ところが、今度は違つたようです。》

"diary of takonopentagon" (97/9/5-)、"takonopentagon"というのは当時の私の隠語である。《夢は大きく、Chinnp-poeは小さく!》、《時々、どれ程正気だろうと思ってゾクゾクする?》(97/9/17)。

《借金無くして、サバサバマグロ!(人生楽ありゃ雲あるさ)》──誤変換ではない。《雲あるさ》と記されている。《彼はまるで気ちがいみたいに気がくるっていったらしいぞ! 来てます来てます。》

『歓びの島へ』と題されたノートから。《人生は長い、しかしそのうち短くなるだろう。鳥は唄い、魚は腐る。キャベツは脳にはなれず、肛門はナマコになれない。》

"cragy revolution from now (1/11/97, somedi), "l'enfer. c'est le beatitude en acte." (地獄、それは現実態における至福のことだ。)

"Workiing through to the Death" by Takonopentagon (97/9) - 《死に至る徹底操作の果てに、単純なる律動。促されて穴に潜れる蟲人間(わあむまん)。明日の天國より、今すぐの地獄を。南進せよ!》

"my education, my erection" (8/11/97) - 《歓びの球躰、膿みつかれ、秋の夜長に、熱尽きぬ。いづれ来るかも、老ひの日々》。

私が昔から考えていた《歓びの島》とは、要するに死の世界のことである。生きている限り到達できないが、同時に、非常に身近であり、簡単に創り出せるようなもの。そういうふうに考えてきた。

驚いたのは、全部省略したけれども、非常に抑鬱的な内容が多かったが、その後20年も平然と生き延びてしまったという事実である。

現在の私なら、潜勢態と現勢態というようなアリストテレス以来の用語法で考えるから答えが出ないと思うし、長々と展開するよりも、《かくて無(ナーダ)》と一言で済ませればいいのに、と思うところだが。

昔々のメモが出てきたが、それによれば私が初めてゲイバーに行ったのは1995年、20歳のときで、文学研究会の友達連中に連れられて行った。メモワールの2階にある『チェック・イン』という小さな店だが、その後閉店してしまった。

メモを引用すれば、《そこは清潔な感じだったが、独特な、不思議な匂いと、奇妙な雰囲気、店のビデオで流れていた音楽、有線かCDで流れていたディスコか何かの音楽、それに美しい従業員たちが印象的だった。》

西田鬼太郎名義、『天使か雄か』からは引用すべき箇所はない。"SEI is a little prayer", 《凍り付くやふな風吹く白茶氣た薄明の街包む頃、空にはまぼろし、地には戀人ら這ひたる。》──どうして全部擬古文なのか、さっぱり分からない、自分でも。

さて、これは当時、《コカマのせいちゃん》という10代のゲイがよくラジオなどに出演していた事実を知らなければ理解できない。そういうふうに、私が書いたものは全部、当時の風俗状況に当て付けたパロディでありアイロニーであった。

せいちゃん、T.M.Revolutionその他に当て付けて書き、しかも言文一致以前の擬古文、とかいうのが私のスタイルだったが、そんなものを送り付けられたゲイ雑誌の編集部も困惑しただけであろう。

《寝臺を食卓に、アンタを囓りませふ!》──これは当時流行っていたUAの歌の歌詞の一節の引用である。

《何て唄なの、とたかし問へば、せい坊、ブラツクアフリカ出身の唄ひ手のゼリイと云ふ曲なンだ、とこたへる。たかし、だるげにそのゼリイのルフランをば口ずさみつ、おのが昔の記憶を苦々しげに想起しつ。恰も影のやふに、振り払ふことすらかなはず、曳きずりゆくほか無い物をば畏れつつ。》

《すみら、バーテンダーズ・ラヴ/オナらふ 君も一緒に/明日は明日/來 來 來 來 來/君は君でイつたら?/すみら、すみら……》──一風堂SHAZNAの『すみれ、セプテンバー・ラブ』のパロディ。

当時の記録を読み返すと、99%は抑鬱的な内容である。そしてたまに、演戯──《死亡演戯》が混じってくる。それは自分自身の生命や健康を犠牲にしながら他者に向けられるアイロニー、悪意である。

当たり前だが、20年前の私が優雅で余裕があったはずはなく、病人であり貧乏人であった──それは2012年の現在も同じである──だけだが、どういうわけか、ストレートな感情表現にならず、異様に屈折した悪意ある複雑なメッセージになってしまう、ということであろう。今もそうだが。

シンプルな感情表現というなら、《痛い、痛い》、《苦しい》などの本当に単純で無内容な言葉の繰り返しになってしまう。それでもいいのだろうが、なんとなく退屈なので、苦痛の表現にあれこれ工夫を凝らしてみただけである。