『プロタゴラス』

プラトン著『プロタゴラス ソフィストたち』(篠沢令夫訳、岩波文庫)、読了。何度読んでも面白い。

プラトンの対話篇でソクラテスプロタゴラスを言い負かしてしまうのが果たして本当に正しいのかどうか疑う。どうもソクラテスの議論の仕方そのものがおかしいように思う。私は、昔からそうだが、プラトンのようには考えられないし、彼の理屈に少しも賛成ではない。

プラトンの対話篇におけるソクラテスは、(1) プロタゴラスが長い話をしたら、長い話をするということそのものに反対し、議論をやめると脅す。(2) プロタゴラスが詩の解釈をすると、そのことそのものを否定してしまう。要するに彼は彼が得意な「問答法」でやりたいだけだし、そうするならば自分が勝つのが分かっているのだ。

プラトンが書くものを信用する限り、ソクラテスはそういう手法でアテナイに存在した全員をアポリア(袋小路)に追い詰め自壊させてしまう。例えば『国家』篇の冒頭に出てくる、権力を礼賛する人物などをソクラテスは反駁してやっつけてしまう。

そういうソクラテスは悪人でもなく宗教的に不敬虔でもないが、同時代の人々から嫌がられたのは当たり前だろう。

《権力が素晴らしい》という意見は真実でも正義でもないだろうが、そういう主張が出てくることには社会的な必然性がある。ところがソクラテスはそういうことを考慮せず、どんな主張であれ論理的な矛盾や不整合を論って覆してしまう。

もしソクラテスのように権力も快楽も斥けるならば、彼がそうなったように死ぬしかないし、生きている時間すら《死の練習》であるということになってしまうだろう。ニーチェソクラテスの刑死は一種の自殺であると考えたのは正しい。ソクラテスには幾らでも逃亡するチャンスがあったのに、彼は死を選んだ。法律には従うべきだなどというくだらない理由で。

プロタゴラス』に戻れば、ソクラテスプロタゴラスの論理を突き崩すのは、《徳は一つなのかどうか》というような実にどうでもいいことを執拗に言い募ることによってである。彼は「厳密な理論的説明」を求めるというが、そういうものではないと思う。(p.64)

プロタゴラスが「いやにしつこくこの私に答え手の役を押しつけようとするようだね、ソクラテス」(p.161)と嫌がるのは当然である。なぜならソクラテスの問い掛けは罠であり、それに返答するだけで術策に嵌ってしまうからだ。

プロタゴラスは「知者(ソフィスト)」と名乗っていたかもしれないが、一般的な意見をいっていただけである。ところが、ソクラテスの悪意はそういう一般的な見解を意地悪く突き崩してしまう。

大体言葉のうえの論理的な整合を執拗に要求すれば、プロタゴラスの意見だけではなく大多数の意見が否定されることになるのは当たり前である。《徳が一つかどうか》などは理論というよりも、言葉のあやである。

ソクラテス古代ギリシアに現れた最初のそういうタイプの人物である。論理だけを根拠に経験や現実を否定するだけならパルメニデスやゼノンもそうだったが、彼らは哲学詩を書いたり逆説を主張しただけだった。しかし、ソクラテスはあらゆる人々(有力者)のところにわざわざ出掛けていき、彼らを論駁して困らせてしまう。そういう《実践的》な人物はソクラテスが最初で最後だったということだ。

ソクラテスの動機を弱者の怨恨だというニーチェに疑問なのは、一つはソクラテスがそれほど近代人であったはずがないからだし、それから、彼が平民だったとしても奴隷などではなかったからだ。彼の生涯について分かっていることを確かめても特に変わったことやマイナスなどはない。ごく普通のアテナイ市民である。彼の特異性は《問答法》を実行したということだけである。

ソクラテスが真実や知識を求めたということを疑問視する必要はない。だが、ただそれだけなら、彼は論理学をそれほど知らなかったというだけだ。けれどもそうではない。彼には彼自身を滅ぼし、当時の伝統的な社会の基盤を掘り崩してしまうような何かがあったのだ。

例えばプロタゴラスが人々から偉いと思われ尊敬されていたなら、放っておけばよかっただろう。しかし、ソクラテスにはそうすることができなかった。彼自身の流儀、つまり《問答法》によってプロタゴラスを否定してしまったのだ。

ソクラテスが主張する理屈は彼が用いていた言葉に拘束されていたし、そもそも問答(対話)という手法自体が、或る一定の話し言葉という環境のなかでしか可能ではないが、そういうことに彼は自覚的ではなかった。

例えばアリストテレスは、XならXという術語が多義的に用いられていることを慎重に確認することから始めたが、もしそうしないならば、ソクラテスのように他人を矛盾に追い込んで崩壊させたとしても、ただ単にその人の勝手な独断である可能性がある。

ソクラテスプロタゴラスが「もし」という留保をつけて返答しようとするのを執拗に否定するが、プロタゴラスの態度のほうが普通であり、ソクラテスの意見は真理愛とかいうものではない。それは相手を追い詰めるためだけの理屈である。

プロタゴラスは徳の教師などではなかったかもしれないが、それでも社会的に立派な人物だったことだけは確かだろう。現代社会において弁護士が尊敬されるのと同じである。そういう人々を悪意的に否定してしまうソクラテスというのは、どうなのだろうか。

プロタゴラス』『ゴルギアス』においてもプラトンソクラテス)は、彼らの主張が疑わしいとしても、彼らがどうみても立派な人物だということだけは認めざるを得ない。

非ヨーロッパ世界、例えば中国がどうだったかはちょっと詳しく調べる能力がないが(孔子老荘思想など)、ギリシャやヨーロッパに限れば、哲学者とか知恵を愛好するという人々がどういう人々なのか検討する必要がある。西洋哲学史タレスから始まるのが普通だが、その彼は「哲学者」と名乗ったわけではなく、ただ単に「賢者」であり、実践的で実際的な人物であった。「哲学者」という言葉を創ったのはピュタゴラスである。そのピュタゴラスからしてそうだったが、多くの哲学者は濃厚に宗教的であった。或いは逆に、その社会の宗教的な基盤を結果的に破壊してしまうかである。古代におけるソクラテスの出現を、近世におけるデカルトに比べることができる。デカルトも別にキリスト教を否定したわけではなかった。が、彼はそれまでの伝統とは全く異質な世界観を齎した。

哲学を研究し専門的な職業にしようという人々の99%が、プロタゴラスよりもソクラテスプラトンが好きだというような人々である。大学時代も、プラトン、ルソー、フッサールが大好きだという人々が膨大にいたのを覚えている。彼らの《真理愛》には実はそれほど説得的な根拠はない。ただ単に彼らの好みなだけだ。しかし、そういう人々から構成されている哲学論壇の主流の意見が偏見なのではないかと考えてみる必要もある。